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ユングに捧ぐ 〜数秘基礎科生徒さまの卒業レポートより

アイオンズ数秘学・基礎科 卒業課題レポートの2作目は かの「ユング」です。とても濃密で、そしてリーダーの思いの伝わるレポートです。 

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Carl Gustav Jung 
カール・グスタフ・ユング 
1875.7.26 ~ 1961.6.6 

  まず基本となる誕生数から見ていきます。
Birth number は {#9} 
 {#9}は自然数の総てであり「苦」を表し、 揺れやすく、不安定であり複雑な性格が出やすいナンバーですが、 幼少期から青年期にかけて、己の内心の二面性に直面して揺るいだユングにこれは当て嵌まります。 けれども、{#9}は完璧や完成、真理の数字とも言われ、他に全体意識、人類愛、寛容、博愛、正義感、変容などの意味があり、お金、地位、名誉に加えて博愛を表す数字でもあります。冥界や魔術、知性との関連もある数字ですが、 オカルトや宗教、自然科学における真理、人間の心・無意識・魂について飽くなき探求心を示し研究を続け、確かな形として後世に残るものを作り上げたユングは、そのどれもに当て嵌まる生涯を送り、功績を残したと言えるでしょう。  

何より、{#9}における課題である{愛と理解力を持って実践される人類愛}は、ユングが精神病治療における患者との在り方に表れています。今に至っても揺るぎなく確立されているユング心理療法とは、患者を”一人の人間として”、治療者と患者が対等に向き合おうとする在り方からなります。”対話”が治療の糸口になるとして、特に”治療者と患者の対等な対話”を大事にし、そして、”治療者と患者の相互作用”、つまりは、”治療者と患者双方の反応を積み重ねることによって、新しい発見や、真実に近づくこと…、お互いを高め合い深め合っていく等の過程”を非常に大事にしました。 そして、同じく精神病治療者であったフロイトと明確に違う点は、あくまで治療者は患者を治療するだけという上の立場から患者を見ているものであるという対面方法もありますが、フロイトが週に4、5回カウンセリングを行うのに対し、ユングは週に2、3回のカウンセリングをするに留めていた点もあります。これは、患者が、自分自身と対話する時間を多く持たせることが狙いであり、患者自身が、自分自身で問題を解決する力を身に付けさせようとするものでした。

 「心理療法は人間の数ほど多様なもの」。 ユング自身の経験からをれを知っていた彼は、だからこそ限定的な考えを好まず、患者一人一人との”対話”を大事にし、 確かな愛と理解力を持って、クライアントと接していたのです。 次に運命数(Destiny number)を見ていきます。 


運命数は{#50-5}
 {#0}がつくことから、彼は人生の後半から霊的なインスピレーション、直観、洞察力を発揮していくことになります。実際に、彼の人生の後半における”曼荼羅”の発見や、ユング独自の”錬金術に心の統合を重ねる”研究とその完成は、霊的な感性がなければ出来なかったと言えるものです。 また、{#5}を運命数に持つ人物は、知的分野で新しさを切り開く仕事が当て嵌まりますが、まさに、ユングは精神医学という知的な分野で、新しい心理学論を切り開いていった人物です。 

 そしてまた、 誕生数の解説から、ユングには繊細で不安定で複雑といったイメージが持たれたかもしれませんが、 その実、そもそも{#5}の持つ性格にあるように、好奇心が旺盛だからこそ様々なことに興味を持ち、その研究対象は東洋西洋を問わず、ユングはその地に旅行して赴いてまで実際を目の当たりにし研究しています。 学生時代には積極的に学生運動に参加しては、巧みな会話術で人を惹きつけたという記録もあります。 ユングは患者との恋愛事情も有名であり、圧倒的に女性の弟子も多く、弟子たちの中では師であるユングを巡る三角関係的な争いが多くみられたといいます。 

{#9}の繊細で優しい面と、{#5}の好奇心旺盛で魅力的な面を持つユングは、女性にとって、母性本能をくすぐるような、今でいう密かなアイドルのような人物だったかもしれません。 次に、誕生数と運命数から引き出される、彼の人生での可能性を見ていきます。 


 実現数(Rerlization number)は{#14-5}
{#5}における人生の可能性は”自由”であり、”柔軟”に、形に囚われることなく人生を開拓していくことが課題です。 そしてカルミックナンバーである{#14}のテーマは、”本当の自由とは何か?”を学ぶことにあります。 

{#14}は、”両極”を体験する番号でもあり、密教でいえば、”空”と”色”の両極を体験し学ぶことで、それらの統合を試みる番号でもあります。 以上をユングに当て嵌めた場合、 形に囚われることを嫌ったユングの精神治療法や、東洋仏教や西洋の錬金術といったものからも心理学を追求した姿に{#5}の実現数を見ることが出来ます。 両極を体験する、というカルミックナンバーについては、幼少期からの”無意識”への試みと、それを”心理学論”として現実的に打ち出していったところに見られるのではないかと思われます。
 他に、ユング自身、当初はそれと知らずに描いていた”曼荼羅”に、内面的・精神的な心の”統合”があるという気付きを自ら得ています。

ソウル(Soul number{#8}
{#8}は成功する為に生まれてきた人が持つ数字であり、アクティブでエネルギッシュな数字です。
 野心的であり、地位や名誉を得るという数字でもありますが、ロマンチストで夢想家、直観力があり、努力によって思慮深くもなり、革命的で向上心のある数字です。極端であったり、権威主義であったり、独裁的で支配欲があり、人を見下してしまうという面も出やすくはありますが、良い面を見ていけばとても良い数字です。 ユングは貧乏な家庭に生まれたことを後々に知って衝撃を受けることになりますが、めげずに、まっすぐに、自分の道を突き進んでいきました。 そこには、偉大であった祖父を尊敬し、父に対しては失望…つまり見下していた部分があったわけですから、内心で、父のようにはならない、祖父のように”成功”するのだという強い思いがあったかもしれません。 

ユングは後に出会うフロイトに父のような憧れを抱いていますが、それも、ユングが求めていた父親像は、やはり、尊敬出来て、偉大で、自分に自信のある知的な人物だったということ表れなのでしょう。 そして、{#8}の課題、”不可能への挑戦と開拓”を、ユングは確かに果たしていきました。


 人格数(Personal number)は{#6}
{#6}のパーソナリティは、堅実で保守的、優しくて親身、家族思い、派手ではないのにモテる人、とあります。 Historyでも触れていきますが、 裕福でない家庭に生まれ、不仲な両親の元で幼少期を孤独に育ち、それでも家族を見放すことなく、 家族を思い、父が亡くなれば自分が家族を養い、そして、優しくて親身な精神科医であり、派手ではないのに女性にモテる。ユングにぴったりだと思ってしまうのは仕方がありません。


ステージナンバー(Stage number)は{#12-3}
 ユングの活躍の舞台は、{#3}でいう”知性”と”表現”の中にありました。 ”人々に未知の光を投げかけること”。「集合無意識」や「タイプ論」、「シンクロニシティ」、「宗教と心理学」、「錬金術と心理学」「空飛ぶ円盤」など…心理学という舞台の中で彼は確かに、未知なるもの発見しては、人々に示していったと言えます。 そして{#12}は、コラボレーションの数字です。”蜜月の時”と言われた、フロイトとの共同研究の期間や、後に脱退することもありましたが、数ある学会の設立、クラブの設立であったり、後年に他の学者と共同で著書を発行するなど、確かに、ユングは生涯に渡り、何かしらのコラボレーションを行ってきました。弟子も多くいましたしね。その後継者も実績を残しています。 ユングの成功と名声も、それを評価した後ろ盾ともいえる人物の存在が大きかったからだと記されるものもあります。(後に記述。) 


Nature {#9} 誕生数と同じ{#9}
根っからの{#9}の人だと言えます。揺れやすく、繊細だけれども、慈悲心の強い人なのだなとわかります。 *Action {#3} アクションは{#3}です。子供っぽいところがあるということでしょうか。表現する、ということに長けていたこともありますが、遊び心のある人だったのかもしれません、ユングの記録には共同で研究した人や、友人も多く見られます。 


Challenge {#33-6} 
{#33}は、生きている間に到達できない数字と言います。{#3}が二つ並ぶことから、”創造”が強く関わってきます。そして、{#6}でもあるので、その”創造”は”献身的な愛”の為に使うことになります。後に記述していきますが、ユング心理学を確立したユングは、生涯に渡り、博愛精神のもと、人々への献身的な愛のもと、”創造”を示していったと言えるでしょう。 次に、チャートを見ていきます。

 Balance は 0 であり、中庸で、良いバランスがとれていたことになります。 ユングのチャートの中で気になるのは、
*Creation 1、 という点。 これは、創造性について、オリジナルのものを持っているということになります。ユングは独自の心理学を確立しました。後にも書きますが、”石の塔”を自ら作るなど、確かに、オリジナルのクリエイティヴィティを持っていたと言えます。
 *Support 1、という点。 
これについても、彼はそれまでの精神治療の患者との在り方、”あくまで治療者は治療してあげる立場であり患者は受けるだけ”、というものから、”人として患者と対等に向かい合う”という方法を確立していったことから、独自の方法で人をサポートしたのだということが言えます。 
*Body 1、という点。 ユングはボディヒーリングの才能もあったようです。それと知らずに曼荼羅を描きつづけ、自らを癒していた、ということもありました。母の死を切っ掛けに石の塔を建設し、そこに籠ることで、現実から遮断され、”まるで母親の母胎に還る”ことで自らを癒した、という体験がユングにはありますが、それも独特の思い付きからくる癒しの行動でしょう。 
*他、全てが4。 ユングは、真面目で、こつこつと努力することによって成長していったタイプと言えるのでしょうか。


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Histroy

Cycle Number 0~27歳 #7
Pinnacle Number 0~27歳 #6 

 『幼少期~青年期』 

 ユングを語るにはこの若年期が欠かせないことであり、 ここでのCycleナンバー#7の後に続く#8の為の、大事な下積みがこの時期にあったと言えます。

 ★<1875年 Year Cycle #2サイクルの中の #18-9 0歳>  
1875年7月26日、ユングはスイス北部のトゥルガウ州ボーデン湖畔のスケヴィルという小さな村の牧師館に生まれ、4歳まで牧師館や古城、農場、アルプスの峰々に囲まれて育ちました。 ユングには兄と妹がいますが、兄は生まれてから早期で亡くなり、妹は9歳年下であったため、実質、彼は幼少期を一人っ子として過ごしています。 

 ★<1879年 Year Cycle #2サイクルの中の #13-4 4歳>
この歳までスイスの文化、風土(多民族・多言語)の中で過ごします。 この中で過ごした経験も、ユングに大きな影響を与えていると書く人もいます。 多民族・多言語の国家体制を維持するには多くの苦労があり、長い内戦の歴史がありました。 その環境が幼いユングに与える影響は計り知れず、実際に、ユングは「神がいるのなら、なぜこの世にはこれほど恐ろしいことが満ちてるのか」と、神について、特に、神の善と悪の面について疑問を抱くようになります。 この頃、サイクルとしては、1877年から始まる{#2サイクルの中の#13-4}となり、幼少期は、ユングにとって人間関係について学ぶ大事な時期であったとも言えますし、サイキック的な感受性もこの頃あったと言えます。 また、ユングの両親は不仲であり、家政婦はいましたが、彼は一人で孤独に過ごしていたようです。 この両親もまた曲者…と言ってはなんですが、家系的にも特殊な傾向があり、ユングの27歳までの{ピナクル#6}というのも、この両親の影響があると言えます。 

 ★<1884年 Year Cycle #2サイクルの中の #18-9 9歳>
ユングは9歳までを孤独に過ごします。 いつも一人遊びに夢中で、極端に内向的だったといいます。 その辺りは、{Birth#9}も想起させますが、Dayナンバーからみる子供時代の{#8}のアマチュアである、”極端”という面も表れていたかもしれません。 そしてユングは、「田舎の純朴な少年」とは程遠い、あまり子供らしくない、鋭い感受性を持った子供であったと言います。  また、孤独の中で、ユングは一人遊びに没頭し夢と空想に耽って過ごしながら、この頃、後のユング理論に影響を与えることになる、”人食いの夢”をこの幼少期に見ています。”夢”は、ユング心理学の中でも重要視されおり、”人食いの夢”が無意識からくる潜在的な恐れであると後になって理解することになります。

 ★ユングについて語るには両親の存在が不可欠であるので、両親についても触れていきます。  父のパウルは元々学者志望でしたが、経済的な理由によりその道を諦め、精神病院の礼拝堂牧師を兼ねたプロテスタント牧師となりました。 ユングは、この父を優しいけれども頼りないと思っていたようです。牧師でありながら、幼い頃のユングの神に対しての疑問に満足のいく答えをくれなかった父に対して、やがて不満と失望、怒りを抱くことになりますが、最終的には哀れみを感じるようになります。 この父はユングが21歳の頃に病気で亡くなりますが、その後はユングが、家長として母と妹を養っていくことになりました。その辺りも、ピナクルナンバー6の状況が伺えます。  

また、ユングが生まれた頃には既に他界していましたが、ユングと同じカール・グスタフ・ユングの名を持つ父方の祖父は、医学と自然科学を学んだ後に推薦によって、後に孫のユングが通うことになるバーゼル大学の教授になると学長まで上り詰め、また、孫同様に心の病に関心があったらしく、精神病の子供の為の研究施設を設立するなど、とても偉大な人物でした。当時のフリーメイソン(※)の会員であったり、ゲーテの私生児と噂され、後世にも”伝説的”と記録が残るほどの人物であったようです。ユングはこの祖父を非常に尊敬していましたし、目指す方向性についての影響も大きかったと思われます。    
※フリーメイソン…友愛結社。秘密結社。「自由」、「平等」、「友愛」、「寛容」、「人道」という基本理念がある。宗教に近いが、宗教ではない。「全人類の兄弟愛という理想の現実」「文明というものがもつ真正で最高の理想実現」等を目的としている。慈善活動も行うが、それだけが目的ではない。

 ユングの母エミーリエは、バーゼルでは有名な神学者でヘブライ語学者でもある牧師ザムエル・プライスヴェルクの娘であり、エミーリエとその母、父のザムエルを含め、その家系には霊能力者が多く見られたそうです。 これは、ユングが【生まれつき霊的な特殊な環境にあった】ということであり、 この環境があったからこそ、後に、フロイトが辿り着けず、認めることが出来なかった「集合無意識」や「共時性(シンクロニシティ)」の発見を認めることが出来たのでしょう。  また、この母エミーリエは、温かく陽気な性格の反面、不気味で得体が知れないという両面があったといいます。

こうした母の性格もユングに多大な影響を与えました。 もっとこのエミーリエについて触れていくと、 ユングはお母さん子でしたが、だからといって彼は母に溺愛されて育ったわけではありません。 夫婦仲も悪く、ユングが2、3歳の頃には別居によってエミーリエはユングを一時的に手放しているという説もあり、幼い頃のユングの育つ環境は決して良いものではありませんでした。 

けれどもユングは、母について「動物的な温かさをもち、料理が上手で、人付き合いがよく、陽気だった」と自伝に記しています。そして、「予期しないほど強力であり、反撃の余地のない程の権威を持った、地味で堂々とした人物であった」とも書いています。 この二面性にユングは苦労しており、恐ろしいことを言ったと思えば、数時間後には何事もなかったかのように穏やかな様子に戻る母に対して、ユングは愛情を求めながらも、信頼を失っていったといわれています。 

そして、ユングは、その母の二つの人格の明るい面を「人格NO.1」、権威的で怖い面を「人格NO.2」と名付けています。この二つの人格について、ユングは『意識的な人格』と、『無意識的な人格』と区別したのです。 これらのことから、母の存在はユング心理学論にとって絶大な影響を及ぼしたことがわかります。 そして、誰しもが自分の中に意識と無意識を持っているものであり、即ち人格も二つある。人は皆二重人格であると、ユングは見抜いていきました。 その確信に至るには、母だけでなく、自身の体験からの影響もあります。 ユング自身も、己の中に二つの人格があることを幼い頃より自覚していたのです。 それには、今でいう中学から高校のようなもの(ギムナジウム)に、ユングが通っていた頃に発端があります。年齢でいえば、ユングが11歳の頃から学校に通い始めます。


 ★<1886年 Year Cycle 2の中の#20-2 11歳> 
この頃、学校に通い始めたユングは、自分が他の子供と比べて貧しい田舎者の息子であったと初めて痛感します。{#2}という、周りの人間との協調性を学ぶ時において、この他者との比較は、ユングには強い衝撃であったと想像できます。 

 ★<1887年 Year Cycle #3の中の#12-3 12歳>
12歳のある夏、ユングは友人とふざけあっていて突き飛ばされ、頭を打って意識を失います。実際にはすぐに意識を回復するのですが、友を懲らしめる為にわざと長い間失神したふりをしたそうです。(この辺りは、{Action#3}の子供らしさを想起させます。{#3}のサイクルに入り、やっと子供らしい面が表れたのでしょうか…) そして、その結果周りは大騒ぎとなり、医者には半年間もの自宅療養を言い渡され、ケガ自体は大したことはありませんでしたが、しばしば軽い頭痛を起こすようになったことを理由に学校を休学します。 そして実は、ユングはここぞとばかりにこの休学を謳歌しますが、父が自分に対して本気で将来を心配していることを知ると、それ以来、軽度とはいえ頻発するようになった頭痛と向き合い、自分の力で学校に復帰するに至ります。後に、その頭痛は、ユングが医師になってから初めて「神経症」の一旦であったっと知ることになります。 父が自分の将来について本気で悩んで心配していることに、ユングは衝撃を受けると共に罪悪感も抱いたのでしょう。 

{Birth#9}と{Personality#6}の、揺れやすさと、家族に対する思いやりや優しさをここに伺うことが出来ます。 その後、ユングは、 ”孤独で数学が苦手な、貧しい牧師の息子”という現実的なしょぼくれた通常の自分と、”威厳を備えた老人のような、理知的な自分”が自分の中に存在していることに気が付いていきます。 彼は、母同様に、自分でそれを「第1(の自分)」「第2(の自分)」と名付け、その「第2」の存在は誰にも明かさずに、それを観察し続けます。 これには、不安と劣等感を感じていたユングが、自分の中に二つの人格を想定して、はじめて精神のバランスをとっていたのではないかという説もあります。 

20歳を過ぎる頃まで、この二つの人格はユングの中で互いに影響しあい、争っていたと言われます。 しかしながら、その劣等感も、バランスをとる為に出現した二つの人格も、ユングの説いていく心理学の基盤に、まさになったと言えます。すべての体験が、後に結びついていくのです。 もう一人の自分に気付き、その自分を観察しながら、深く自己を知っていく。 この流れこそ、{Cycle#7}と言えるのではないでしょうか。


 ★<1895年 Year Cycle #3の中の#20-2 20歳>  
1895年、ユングは亡くなった祖父が学長を務めていたバーゼル大学で医学を専攻することになりました。彼はあらゆることに広く興味があり、かなり悩んだ末に、この医学部を選んでいます。 ユングは勉強熱心な学生でもありましたが、医学は当時、彼にとってあまり興味のある分野ではありませんでした。それよりも、当時の学生運動に参加し、哲学・心理・オカルティズム等に関心を寄せ、盛んに演説や討論を繰り返し、学生新聞にもいくつかの論評を書く等、精力的に活動をしていたようです。

また、ユングの人を惹きつける話術や熱病のような恋愛などについて、同年代であった従兄弟の証言が残っているといいます。 {#5}を持つ彼の、人を惹きつける不思議な魅力と、恋愛事情が垣間見えます。 また、この頃、ユングは8歳年下の従姉妹との心霊実験グループにも参加しており、従姉妹を霊媒に降霊会を何度も行っています。この活動は後の博士論文のテーマともなり、ユングにとって重要な体験がここであったと言えます。(しかし結局、降霊会での出来事は多重人格の人格交代の症例として発表しています。) そして、この頃、彼の一生を決定づける、オーストリアの精神医学者リヒャルト・クラフトエビングの著書「精神医学概論」と出会います。

 「精神科医は、人格の病に関わる心の医者である」という一節を読み、ユングは、精神医学こそが自分の求めていたものだと知り、迷うことなくその道に進むことになりました。※   
※ユングは、もともと自然科学(真理)と比較宗教学(心・魂)に興味を抱いており、精神医学は、この二つが統合された学問であると知りました。 他に、学生運動時代には、ニーチェにも強く影響されているようです。

 創造力の開花、視野の広がりという{#3}というサイクルの中の{Year Cycle #20-2} 、{#2}は学びと自立のナンバーであり、ユングはまず「医学」という道を選びました。そして、{#0}は、霊的な感性と直感という意味があります。霊的な直感に導かれるように、ユングは精神医学の世界と出会ったと解釈できます。 ★<1896年 Year Cycle #3の中の#21-3 21歳>  病によって父が他界し、ユングは家長となるのを余儀なくされ、母と妹を養う必要性が出てきます。  サイクル{#3}の、”忍耐と経験”、といえるのではないでしょうか。

 1895年(ユング20歳)から1900年(ユング25歳)までのユングの学生時代は、貧困との戦いでもありました。彼は経済的に困難な中、多額の借金をして学業を続けました。 この辺りをフロイトと比べた場合、裕福な生まれのフロイトは8年を掛け大学を卒業したのに対し、ユングは経済的にも短い期間で卒業しなければならず、5年という短い期間で大学を卒業し、大学付属の精神病院の教授の助手として仕事を始めるのです。


 ★<1900年 Year Cycle #4の中の#16-7 25歳>  
後に「統合失調症」概念の提唱者となるオイゲン・ブロイラーの元で助手を務めることになります。 この出会いは運命的であり、ユングにとってとても幸運なものでした。 何故なら、ブロイラーこそフロイトの精神分析(※)に対する考え方を初めて評価した人物であり、「統合失調症」の分野のもっとも有名な学者であったからです。 ユングの成功と名声は、このブロイラーの評価によるところが大きかったのです。

 基盤を作る{#4}というサイクルの中で、{Year Cycle#7}の、ステージアップ・可能性の拡大という流れをユングは確かに掴みました。  ※1900年、フロイトの「夢判断」の本が出版される。それは精神分析学の出発点となるものであるだけでなく、それまで単に不可解なもの、あるいは神秘的なものとしてあやふやに扱われてきた”夢”を心理学的な分析の対象にし、そこに意味があることを初めて示したという点で画期的な著作でした。 そして、これは「無意識」の働きについても初めて示された本であり、後の心理学に非常に大きな影響を与えました。  


★<1902年 Year Cycle #4の中の #18-9 27歳>  
博士号を取得。  {Cycle Number #7}の最後で、ユングはまた確かなステップアップを果たしました。  {Year Cycle#4}という基盤を作るサイクル中で、{#18-9}の”才能の開花・次の光へ”とユングはまた進みます。


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Cycle Number 28~45歳 #8 
Pinnacle Number 28~36歳 #2 
Pinnacle Number 37~45歳 #8 

 『壮年期~』  

★<1903年 Year Cycle #4の中の #19-10-1 28歳>  
エンマという女性と結婚。 ユングは21歳の時に14歳のエンマを見かけ、将来この少女と結婚することを直感したといいます。 家系的なものもあるのでしょうか、ユングは生涯に渡り、直感的な導きが多く見られます。 数秘では、{Soul#8}の直観力がありますが、 サイクル的に見ても、エンマとの出会いは{#3}サイクルの中の{#21-3}であり、サイキックな導きがある{#2}とソウルメイトとの出会いである{#1}の年に出会っていることは、やはり運命的な出会いだったと言えます。 結婚するには{#4}というやや堅いサイクルの中ではありますが、イヤーサイクル{#1}での結婚は、堅実なものだったと言えるでしょう。

 <1905年 Year Cycle 4の中の#21-3 30歳> 
 チューリッヒ大学医学部私講師に就任。

★<1906年 Year Cycle 4の中の#22-4 31歳> 
1906年4月、フロイトがユングへ送った手紙から、文通が始まります。 この時、ユングのイヤーサイクルはまだ{#4}の中の{#21-3}。 その後1913年までの約4年間文通は続く。 他、主だった動きとしては、 フロイトの精神分析への正式な参加があります。 

★<1907年 2月 Year Cycle 5の中の#13-4 月サイクル #6 31歳> 
1907年2月、ユングはフロイトの自宅を訪ねます。 
この時が初めてユングがフロイトと対面した時になり、 2人は13時間も語り合い、フロイトはユングのことを「最も期待しうる後継者」と絶賛し、 ユングはフロイトのことを「生涯で出会った最も偉大な人物」と称しました。 MonthCycle{#6}から見ても、重要な”変化の中の基盤の年”、その中の”調和の月”だったと言えます。

<1907年 Year Cycle 5の中の#14-5 32歳> 
「早期性痴呆の心理」  刊行 

 ★<1908年 Year Cycle 5の中の#15-6 33歳> 
ユングとフロイトの”蜜月の時”と言われる時期まっただ中です。
ユングとフロイトの文通は359通に及び、 フロイトはユングを信頼し、息子のようにも思い、ユングは偉大なフロイトを父のように思っていました。 1908年1月には、ユングはフロイトにある研究会の座長就任を依頼し、フロイトは快くそれに応えています。そのことからも、フロイトはユングに対して全般の信頼を置いていたことが伺えます。 <1909年 Year Cycle 5の中の#16-7 34歳> ブルクヘルツリ大学病院を退職 個人開業医として専念し始める。 フロイトと共にアメリカを訪れ、フロイトを継ぐ精神分析家として講演を行う。 それ以後、ユングはフロイトの後継者という位置づけとなる。

 <1911年 Year Cycle 5の中の#18-9 36歳>
国際精神分析学会設立、初代会長となる。

 ★<1912年 Year Cycle 5の中の#19-10-1 37歳>
「リビドーの変容と象徴」 刊行 と、フロイトとの決裂。 順調であるように見えた二人の交流ですが、 実は、1909年にフロイトと共にアメリカを訪問していた頃には、既に二人の間に緊張がありました。 ユングは精神分析家になる為には、自身も精神分析を受ける必要があると主張し、『相互作用』を求めて、フロイトにお互いに精神分析をするべきだと求めたのですが、フロイトは「プライバシーの侵害だ」としてそれを拒否しました。それに対しユングは失望を覚えますが、 その後も、ユングはフロイトに父を重ね、フロイトに対して依存をみせていきます。 フロイトはユングの依存に気付きながらも、非ユダヤ人である優れた分析家のユングを手放すことが出来ず、交流は続けられます。 

しかし、とうとう、 「リビドーの変容と象徴」において、ユングはフロイトの性欲理論を否定したことから、二人の決裂が決定的なものとなりました。(※すべての心理的な問題が性欲から動機づけられているわけではないという主張) 11月の国際精神分析協会での代表者たちの会議において、フロイトはユングに対する怒りが爆発し、あまりの怒りに失神して倒れます。 フロイトを介抱したユングはその時のことを回想して、「私に向けた彼の眼差しを私は決して忘れないだろう。よりどころのない状態の中から私をみつめた。まるで私の方が彼の父であるかのように」と述べている。 ユングはその時点でようやく、フロイトに対する父親コンプレックス的な憧れ、依存心から目を覚まし、実在の人物に父親的なものを求めるような、父親探しは終焉を迎えました。 {#5}の変化の中で、ユングはフロイトからの独立を選んだのです。


 ★<1913年 Year Cycle 5の中の#20-2 38歳>
ユングは、自ら”絶縁状”を書き、フロイトと完全に袂を分かちます。 1914年4月には、精神分析協会の会長も辞任し、精神分析の世界から去りました。 その後、チューリッヒ大学医学部講師の職も辞め、完全に孤立した状態に身を置きます。 自宅での個人開業による患者との対話を続けながら、ユングは自己と更に向き合っていきます。

 ★<1916年 Year Cycle 5の中の#23-5 41歳> 
それと知らず、最初の曼荼羅を描く。 この頃、ユングは、自分でも何故かわからずに毎日のように丸い形の絵を描いていました。 その絵を描くことによって、ユングは不思議と落ち着くことが出来たといいます。 そして、その円は、自分の中の様々な要素が一つに統合する全体性を表す象徴だとユングは気付きます。自分の中の劣等感やプライド、論理や感情を一つにまとめて調和させようとする心の働きが、”丸”という図形に表れたのであり、”丸”を描くことで、心が安定したのです。 後に、ユングはその図形が、東洋でいう”曼荼羅”と呼ばれるものだということを知ります。 そして、ユングは東洋仏教、仏教哲学を熱心に研究することになります。 (※異文化との接触)

 <1918年 Year Cycle 6の中の#16-7 43歳> 
戦争抑留英国人収容。収容所の司令官になる。


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 Cycle Number 46歳~ #3 
Pinnacle Number 46歳~ #1 

 人生の後半に入り、 ユングは、 {#3}の創造性と、{#1}のリーダーシップ、これまで培われてきた知識と体験からなるオリジナリティを発揮していきます。 

 『壮年期~老年期』 

 <1921年 Year Cycle 6の中の#19-10-1 46歳> 
「タイプ論」 刊行 ※それぞれの個人は世界と異なる関係を結んでいるとして、人間のタイプを8つの性格に分類した。 個人のものの見方が絶対性を獲得することはない。そして単に人格の多様性が強調されるだけでなく、その中に内的な二面性・二極性や対立・緊張といった概念も含まれているのがタイプ論である。


 ★<1923年 Year Cycle 6の中の#21-3 48歳> 
 母エミーリエ没。 1923年、母の死後、ユングはチューリッヒ湖畔に入手した土地に、 自らの手で”石の塔”と呼ばれる古風な石積みの建物を建築します。 当時のユングは、母の死の悲しみにさいなまれながら、臨床と研究に追われて 自分の中の悲しみに向き合うことができない日々を送っていました。

 塔の建設は、どうしても一人になって自己と向き合う必要があった為に、一種の「避難場所」として建てられたという説がありますが、 ユングは、「最初から塔は私にとって成熟の場所となった」と自伝に記しており、 一人きりで自己と向き合うことで、内面の成熟をはかり、 また、塔は、自分がありのままの自分になれる、子宮のようなものだったともしています。 「人間の原始的な感情に対応するような住処であり、物理的な意味だけでなく、心理的な意味でも庇護されているような感じがするものでなければならなかった」 「最初から塔は私にとって成熟の場所となった。子宮、あるいは、その中で私が再び、ありのままの現在、過去、未来の自分になれる母の姿だったのである」 と、ユングは語りました。 ”石の塔”は、ユングにとって”母性の象徴”でもあったようです。 


★<1928年 Year Cycle 7の中の#17-8 53歳> 
 錬金術について研究開始。 ユング独自の視点で、彼は錬金術の「異なる物質の結合」というテーマに、 「心の中の異なる要素の結合」を重ね、 錬金術を終生の研究テーマとします。 

 <1930年 Year Cycle 7の中の#19-10-1 55歳> 
ドイツ精神療法学会の副会長に就任

<1933年 Year Cycle 7の中の#22-4 58歳> 
会長となる。 エラノス会議始まる 

 <1934年 Year Cycle 7の中の#23-5 59歳>
国際精神療法学会設立、会長になる

<1939年 Year Cycle 8の中の#19-10-1 64歳> 
会長辞任 

 <1940年 Year Cycle 8の中の#20-2 65歳> 
「心理学と宗教」 刊行するも、ナチスによって発禁処分 

<1941年 Year Cycle 8の中の#21-3 66歳> 
 ケリーニイと共同で「神話学入門」 刊行

<1944年 Year Cycle 8の中の#24-6 69歳> 
「心理学と錬金術」 刊行

<1945年 Year Cycle 8の中の#25-7 70歳> 
 名誉博士号授与 

 <1948年 Year Cycle 9の中の#19-10-1 73歳> 
ユング研究所設立 

 <1951年 Year Cycle 9の中の#21-3 76歳> 
 「アイオーン」 刊行 

 <1954年 Year Cycle 9の中の#25-7 79歳> 
「意識の根源について」 刊行 

 ★<1955年 Year Cycle 9の中の#26-8 80歳>
妻エンマ没。 「結合の神秘」刊行 これにおいて、錬金術に見る心理学の研究を完成させる。 
これはまさに、サイクル{#9}の”完成”の中の、ユングの集大成の著書になります。 個人の”心の成長”から、”高次の全体性”を目指すことが書かれている内容ですが、 その内容は理解が難しく、説明不明なものを説明不明なもので更に説明し続けるといったものであり、だけれども、その”不可解さ、不可知性にこそ心の永遠で超越的ともいうべき癒しと救いの源がを見る”というユングの肯定的な眼差しがあると、記すものもあります。

 <1958年 Year Cycle 1の中の#20-2 83歳> 
「空飛ぶ円盤」 刊行 

 ★<1961年 Year Cycle 1の中の#22-4 85歳> 
6月6日 ユング没。
  ユングの最期の言葉は伝記にこうあります。 

「この世界は無慈悲で残酷であると共に、神聖な美しさに満ちている。この世の生活において人は無限のものと結びついている。そして無限のものが絶えず全体性への実現へと人を導いていることを理解すれば、人は真にその生命を生きることになるだろう」 


 これ以上の言葉はないと、今の私には分かります。 
ユングは父のように慕っていたフロイトにさえオカルティズムに傾倒していると否定をされ、そしてユングはそうした批判を数多く受てきた人物でもあります。今現在でさえそんな批判があります。 
しかし、この言葉から分かる通り、彼にはこの世の真理が見えていたのです。 彼にしか分からない世界を抱えて、彼は何を思って生涯を生きていたのでしょうか。 
{#9}を持つユングは、どれだけの想いを持って、生涯を生きたのでしょうか。 

 レポートをまとめながら、 彼を研究に没頭させたのは、生涯に渡る、”受け入れられない悲しみ”と反比例した、”それでも伝えたい”という”愛”の想いの強さであったように思いました。 
 {Challenge number #33-6}であった彼は、 確かに{#33}の高い波動の創造性を、広い人類愛の為に行使してきたと言えるのではないでしょうか


東京クラス Asami Suzuki 

by kej000 | 2014-03-14 12:52 | おもしろ数秘学