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『今を』一生懸命生きる* 松岡修造 その1

すっかりおなじみの松岡修造さんです。が、彼のことをここまで掘り下げた記事(レポート)があったでしょうか? 彼のその熱さの裏側に秘められた真実に迫る渾身のレポートであります♫

松 岡 修 造  (まつおか しゅうぞう)

1967年11月6日生まれ  /  スポーツキャスター、タレント、テニスコーチ、著述家。



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・東京都出身の元プロテニスプレーヤー。
・小学生からテニスの才能を開花させ、慶應義塾高校から テニスの名門・柳川高校へ転校し、インターハイを制覇。そして中退して渡米。
・19歳、プロへ転向。  ウィンブルドン選手権で、日本人選手として62年ぶりに ベスト8 入りを果たす。
・ソウル、バルセロナ、アトランタ のオリンピック連続出場など、日本を代表するテニスプレイヤーとして活躍。
・30歳の現役引退後は、テニスコーチやスポーツキャスターの他、熱血漢的キャラクターを活かしタレントとしても人気。


■ ■ P E R S O N A L I T Y ■ ■


■ Birth Number / 誕生数 ■     22-13-4

22番はマスタービルダーと言われ、創造性の高いナンバー。
強い霊的感受性に目覚めることにより、卓越した才能を発揮し、現実社会において大きな偉業を成し遂げることが出来る人。しかし22番を目指すには、様々な現実問題に対処し 経験を重ね、基盤を作り上げることが必要になる。更に13番は 「創造と破壊」 を繰り返し、障害の度に、その経験の中から大切なものを学び、変容していくナンバー。

22番の matuer は 「熱血」 「 爆発的なパワー」 「実行力、」 「固い意志力」 「 忍耐力」 「リーダーシップ」「博愛主義」 「外交能力」全て、松岡修造に当てはまると思う。

祖父は、阪急阪神東宝グループの創始者、父は東宝の社長。 彼は実業家の一家に生まれた。
将来のエリートコースは約束されていたが、それを蹴ってプロテニスプレーヤーの道を選んだ。

その道に進むことを両親に何度も反対され、またプロになってからは、怪我と病気に何度もおそわれている。しかし、諦めることはなかった。4番の真面目で忍耐力ある性格で、13番の幾多の試練を乗り越え、プロテニスプレーヤーとして功績を残した。現在は、スポーツキャスター・タレント・テニスコーチなど幅広い活動をしながら 人々を応援し、22番に向かって邁進している。



■ Destiny Number / 運命数 ■     9

9番の人は曖昧な事象の焦点を絞る仕事。 例えば、心の分野。 人の心にゆとりをあたえ、愛と理解力を持って穏やかに人類愛を実施する人。彼は30歳までは、テニス一筋で生きるが、引退してからはテニスを通して学んだ 心のあり方 の本をたくさん出版している。

引退後は、スポーツ選手の応援に力を注ぎ、最近では人生の応援歌が話題を集めたり、応援メッセージを書いたカレンダーが爆発的に売れている、類愛や博愛主義の側面が、強く 出てきている。

プロテニスプレーヤー時代は、人々に勇気をあたえ、現在は 発言やメッセージから人々に元気をあたえている。


■ Realization Number / 実現数 ■     13-4

誕生数と同じ13-4を持つ彼は、真面目に 忍耐強く 持久力を持って、次から次に起こる問題に対処しながら自分の目指すゴールに向かって進んでいる。問題が起こる度に、常に学ぶことがあり成長している。彼は、慶応義塾幼稚舎に入学後、小学・中学・高校と慶応に進むが、高校2年の時に、両親の大反対を押し切り、九州のテニスの名門校に転校している。

プロのテニスプレーヤーになった時も、両親からは 「一切の援助はしない」 と言われ、金銭の工面も自分でしている。 ツアー中、宿泊するのは3流以下の安モーテルで、外国人選手と折半し、いつも汚い床の上で寝たという。

また、プロになってからは、何度も怪我と病気に悩まされ 選手生命の危機を経験しているが、諦めることなく強い意志を持って必死のトレーニングをし 復活を繰り返している。


■ Soul Number / ソウル数 ■     20-2

「熱血」 の彼だが、ソウル数は2番。
内面の彼は細やかな心配りができ、優しい平和的な性格だと出ている。

そして、20番の人生は、常に決断を求められる。しかし内側のコントロールが出来ていないと、状況判断を誤ったり、また心の葛藤に苦しむこともある。

彼のメンタルを強めるのに一役買ったのは、心身統一法を広めた思想家・中村天風だった。天風に
出会ってから、全ての著書を読み 公演テープも聞いたという。なかでも 「絶対積極」 を信じ、常に積極的な決断をしている。

そして、ツアー中は、漫画の 「エースを狙え」 を持ち歩き、主人公の岡と自分を重ね合わせ、コートチェンジの間にも見て、精神を落ち着かせていた。形勢不利な時は自分を奮い立たせるため 「岡っ!(主人公の名前)」と叫んでいた時もあったらしい。


■ Personality Number / 人格数 ■     7

個性的で不思議な感じの人が多い。彼の印象は 「熱血」 で熱い男。

しかし自身のキャラについては、天然ではなく計算した上でやっていると述べている。

「僕はさまざまな言葉でメッセージを発していますが、それらを冷静に語ってしまえば、単なる説教になる恐れがあります。取り除きながら元気づけるためには、僕のオーバーアクションは、心からの応援メッセージを伝えるための手段」 と語っている。

人にどんなふうに見られても思いを伝える熱さ、やはり「熱血」の血が流れている。





■ Stage Number ■     11-2

バイタリティー と 揺るぎない意志 を持って、がむしゃらに理想に向かって進んでいく。
その中で、人間関係と協調性を学んでいくナンバー。

彼が高校の時、転校した福岡県の柳川高校はスパルタで生徒を鍛え抜く軍隊式の学校だった。
そこで、シングル・ダブルス・団体戦の三冠達成に貢献。
特に彼が感動したのは、団体戦で優勝し、仲間たちと喜びを分かち合うことができたこと。

柳川高校は、彼にとっての 「心の故郷」 となり、今の彼につながっている。




■ Challenge Number ■     7

精神性への目覚め。本来の自分を内省し、精神の充実を計り平穏さを保つ。

厳しいプロテニスの中に身を置き、毎日続く厳しい練習に耐え、プレッシャーと戦い、周りの反対にあってもまた、怪我や病気にも決して負けることがなかった。
その大変な状況の中で、彼は、自分と とことん向き合い、戦い、本来の自分を見つけていく作業を何度も繰り返している。




■ Nature Number ■     9

全体意識、人類愛があり、正義感があるナンバー。これは彼の本質。

引退後の彼はテニス指導者として若手育成に力を注いでいる。

また、オリンピックのメインキャスターや応援団長としても活躍。
全体意識を持って冷静に判断し、伝えることのできる彼の解説には定評がある。
また、スポーツ選手の応援を命がけでやってる彼を、度々TVで目にする。




■ Action Number ■     5

彼の行動は自由。 新しい風を吹かす人であり、予想不可能な行動をする。

小さい頃から、常に周りの人を驚かせている。
高校の転校、高校の退学、アメリカへのテニス修行、プロ転向。

現在も 「熱血」 という新しいキャラで芸能界に新しい風を吹かせている。




■ Chart Number ■     Support 5     

彼のチャートで目立っているのが、Support 5

彼はテニス時代にサポート力や応援の大切さも学んでいる。
スポーツ選手を、そして人を、サポートしたり応援することを 体全体で表現し全力で伝えている。



◆ ◆ H I S T O R Y ◆ ◆


◆ 若年期 Youth Number ◆     11-2     

11番は理想に向かう揺るぎない意志。 豊かな感受性、直観のナンバー。

彼は兄と一緒にテニスを始めた。コーチは才能のある兄には教えたが、彼には教えることがなかった。才能の無さを何度も指摘され、自身もそれを自覚しながらもテニスの情熱は
衰えることがなく、名門テニスクラブの桜田門倶楽部で本格的に学ぶようになる。
小さい頃から、テニスに対する揺るぎない意志があった。

彼は 11-2 の才能に小さい頃から気付いていた。それを証明する言葉が残されている。

「ジュニア時代の僕は、才能があると言われたことがなかった。一度も言われたことがないのですから、きっとほんとうに技術的な才能は備わっていなかったのでしょう。
それでも試合になると勝ち進みました。
技術的な才能のない僕がどうして勝つことができたのか。
それはおそらく 「人の気持ちを読む力」 「同じ練習をひたすらに続けることができる力」
そういう才能が備わっていたからだと思います。
それが自分自身に備わっていることに気付いたからこそ、世界という舞台で戦うことができたのです。そして、、導かれるナンバー2番から、繊細で感受性の高い若者であったと思われる。



◆ では実際に松岡修造は、どのような子供~青年時代を送ったのでしょうか? 年齢毎に その年のナンバーと比較していきます。
  

◆ 8歳 (1975年) ◆     number 21-3

【 創造、インスピレーション、視野の広がり 】

8歳の時に、既にテニスをしていた3歳年上の姉を見て、兄と一緒にテニスを始める。


◆ 12歳 (1979年) ◆     number 25-7

【 才能を開花させる、探究心、真面目でひたむき 】

小学校6年生の時に、全日本ジュニア日本代表、ジュニア世界大会の日本代表に選ばれる。


◆ 13~15歳 (1980-1982年) ◆   number 26-8 / 27-9 / 28-10

【 達成、繁栄、成功を目指す / サイクルの成就、完成、精神的成長 / 開拓、絶対性、自己信頼 】

中学時代 、全日本中学選手権大会、 全日本ジュニア14歳以下大会、 関東中学校大会、関東ジュニア16歳以下大会 関東ジュニア18歳以下大会、 等全ての大会で優勝を果たす。

テニスの日本ジュニアのトップクラスの選手に成長。


◆ 16歳 (1983年) ◆     number 2

【 反抗期、依存、環境に流される、考えや行動に一貫性がない 】

その後、慶応義塾高校に進むが、夢中に取り組んでいたテニスよりも勝敗がその場で出る 麻雀 に うつつを抜かす毎日が続く。その入れ込みようは、麻雀タコ が出来るほどだった。 彼はこの時期のことを 「甘え地獄」 と形容している。

2番のアマチュアの部分が色濃く出た年と言える。


◆ 17歳 (1984年) ◆     number 3

【 自己批判 / 創造性開花、より多くを経験、成長、激しい情熱、視野の広がり 】

前年までの麻雀の日々にピリオドを打つ。 ある日、「こんなことをしていてもいいのか?」 「テニスがもっと上手くなりたいと思っていたのではないのか?」 「目標のないまま社会人になるのか!そんな人生でいいのか!」と自問する。

そうした ぬるま湯的環境となっていた慶応義塾高校での学生生活を捨て、自分自身を鍛え直すため、高校テニス界の名門校の福岡県の柳川高校への転校を決意する。

その決断は、両親にも、教師にも激しく反対されるが、意志は固く、両親を必死で説得し 転校をする。

転校から2カ月後、ウインブルドンへの道と題された、国内ジュニア大会に出場し優勝。
インターハイでは、シングルス・ダブルス・団体戦の全てを制し、三冠達成をする。


◆ 18歳 (1985年) ◆     number 4

【 基盤作り、軌道修正、実行力、今後の計画、勤勉 】

昨年に引き続き、国内ジュニア大会で優勝する。

そしてまた、大反対の両親を説得し、ヨーロッパ遠征に行くために 柳川高校の休学を決意する。
両親には、「高校を1年休学して、1年後に戻る!」 という条件で、やっと承諾を得る。

その2ヶ月間の遠征で出場した全仏オープンジュニアでは、3回戦まで進出し、手ごたえをつかみ帰国。

その年、世界的名コーチのボブ・ブレッドと出逢い、「アメリカに来い!」 と言われる。
その一言で、単身アメリカ行きを決意。

この時も、母に大反対されるが、泣きながら必死の説得をし、渡米先のハイスクールに通いアメリカの大学に進学する条件で許してもらう。

アメリカのハイスクールでは、英語はまったく分からなかったが、日本語のものを全て排除し、日記を英語で書き、英語の勉強に励む。その努力の甲斐あってハイスクールを卒業。





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その2へ続きます。
by kej000 | 2015-08-18 22:23 | 数秘レポート