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生涯バンドマンにこだわった「忌野清志郎」


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忌野清志郎
(いまわの きよしろう)
職業:バンドマン
本名:栗原清志(くりはら きよし)※出生の時の名前は不明です。養子後の名前です。

生誕:1951年4月2日
死没:2009年5月2日


清志郎は、 RCサクセションのボーカルとして、日本のロック界に新しい風を起こし
「ロックンローラー現役で老衰で死んでいきたい」という希望はかないませんでしたが、
がんの闘病後もステージに立ち、あのソウルな歌声を聴かせくれました。
最後まで、アーティストではなく、シンガーソングライターではなく、バンドマンとして全うしました。人生そのものがロックの人でした。



★誕生数(生まれ持った特質・本来の姿)は、「22-13-4」

13-4は「修練」のナンバー。創造と破壊を繰り返す。オリジナリティ、リーダーシップを発揮する。ヒーラーの適正もあります。さらに、22は「創造」のマスターナンバー。創造性にあふれ、天と地の懸け橋となるような社会貢献をする。現実社会、組織の中で、大きな視野の愛のもと、偉業を成し遂げるパワーがあります。

「古いものを壊す側にいたい」・・・彼が生前に語っていました。
彼の作る音学の根底には、大ヒットするために綺麗にまとまるではなく、
今までの誰かを真似するでもなく、
とはいえ前衛的に走るではなく、
自分たちだけのオリジナリティやスタイルを模索し続けていたようです。
ラブソングばかりではなく、
時には、原発や君が代をテーマとした曲を歌う。
音楽やテレビ業界に向けての風刺的な曲を歌う。
時代時代に合わせて、ユーモアとお茶目な表現力で、
つねに権力的な立場に対して、正直な気持ちをこめた音楽もたくさんありました。
世間では、問題児として取り上げられるものの、
歌詞は、公平で、平和で「愛」のあるものでした。
彼は実の母と父を知りません。3歳の時に養子に迎えられ、その事実を両親は隠していたようですが、本人は知っていたそうです。甘えたいけど甘えられない・・・そんなジレンマを抱えていたと思います。両親の心の痛みも、自分の心の痛みも、両方を敏感に感じながら、人を感動させる歌詞を生み出してきたのかなと、改めて感じます。

彼の人生は
まさしく数字どおり、「創造と破壊」を繰り返しながらも、現実社会で、新たな視点を提示し、偉業を成し遂げてきたと思います。
私にとって「ヒーラー清志郎」。
彼の音楽と歌声は、みんなを元気にしてくれる「ヒーリング」そのものではないかなと思います。


★運命数(この世における使命や目的)は、本名:12-3 芸名:16-7

本名からも、3の数字があり、アートの才能がみられます。小さいころから漫画を描いていたということで、絵の才能もずば抜けていたようです。ミュージャンから素顔の清志郎に戻っても、絵本を出版したり、サイクリングなどの趣味に徹底的に打ち込むなど、子供のような好奇心で様々なことを挑戦していました。

芸名は7。ステージに立つと、奇抜な衣装と化粧で、場を盛り上げ、歌で感動させるエンターテイナーでした。7という音楽の追求に対してのマニアックさ、独創性もあり、皮肉を込めた歌詞もあったりと、つねに冷静に分析しながら、自分や世の中をみていたようです。霊的な感覚もすぐれ、詩や曲は丑三つ時に、天から下りてくることも多かったと語っています。16の要素の真理の探究とうテーマからか、年齢を重ねるごとに、普遍的な愛を、曲から感じることもありました。



★実現数(人生での可能性や実現性)は、本名:7 芸名:11-2

本名からの7では、音楽という表現で、人と人がつながり、幸せになるという素晴らしい仕事を成し遂げられました。からにこもりがちな性格も、音楽により開放することで、自信につながり、徐々に心の壁を取り払っていったと思います。

芸名からの11-2では、音楽がベースとなり、メッセージ性のある言葉選びにも、自分の霊性や創造性を発揮して、日本から世界の平和や調和、愛をつねに歌い続けてきました。自分一人ではなく、バンドマンとして、調和を大切に音楽活動も行ってきました。夢追い人で終わらず地に足のついた行動は、ファンだけなく、音楽業界も含めた現実社会でも、確実に認められていたはずです。


★ソウル数(価値観や内なる動機・行動の基準となるもの)本名&芸名:11-2

本名も芸名も同じでした。「11-2」。
バンドでもリーダーとしてではなく、みんなが同じお給料で、調和を大切にしていたそうです。
「2」調和とバランスの要素がとても強い人だなと感じました。なのでたぶん、「生涯バンドマンでいたい」と語っていたのだと感じます。映像でみると過激な様子もありますが、シャイで繊細な人でした。化粧するのは、シャイな自分から「忌野清志郎」に変わるためだったという話も聞いたことがあります。
オリジナリティの音楽に自信はあったものの、世間で認められるには、時間もかかりました。
心の揺らぎの中でも突き進めたのは、周りとの協力的な姿勢があったからだと思います。
繊細な感性は、現実社会では理不尽なことも多々あったと思いますが、音楽で精神性を昇華させていく努力を生涯されていたと思います。


★人格数(他者の目に映る印象や雰囲気)本名:10-1 芸名:5

本名は10をもっています。高校生の頃、母親が「息子が音楽に夢中になっていって、将来が心配です」と新聞の人生相談に投書し、それが新聞に掲載されたことがあるという話は有名です。
そんな中で、反対されながらも、自分の直感や感性を信じ、ピュアに積極的に行動し、突き進んでいきました。親から独立し、やるべき使命を全うした姿は、「10-1」の霊的な創造性をまさしく発揮したものだと思います。

芸名は5。自由で多才で革新的なイメージ。予想不可能なひょうひょうとしたイメージ。
どちらもステージの清志郎そのものが数字に表れていると思います。




★ステージ数(活躍の舞台・仕事)本名:9 芸名:12-3

本名では9。様々な実体験をもとに、人類愛や博愛精神を大切にし、芸術性を活かして、人々を導いていく使命があり、芸名は3で、音楽や絵の才能を活かして、人々に喜びを与えていくのが、活躍できる舞台となります。どちらも清志郎が実践してきたことかなと思います。



★チャレンジ数(今回のチャレンジ)本名:5 芸名:5

どちらも5。既存の価値観に縛られることなく、生まれ育った家族との関係、仕事として選んだ音楽、精神的にも肉体的にも、浮き沈みを経験しながら、自分のやりたい真実の音楽をつねに追求してきました。バッシングも多々あったかと思いますが、それに屈することなく、一つ一つ積み上げて、真の自由をつかんでいったと思います。



★Nature数(自然な雰囲気)本名:14-5 芸名:8

ひょうひょうとしているけど、カリスマ性がある感じはぴったりです。



★Action数(行動パターン)本名:4 芸名:2

一発屋ではなく、確実に自分のやりたい音楽での実績を積み重ねていき、だけど威張らずに協調性を大切にする人でした。






【 HISTORY】 

参考文献
『ロックで独立する方法』(忌野清志郎、太田出版)
『忌野旅日記』(忌野清志郎、新潮文庫)
『瀕死の双六問屋』(忌野清志郎、小学館文庫)
『Rockin’ on Japan特別号 忌野清志郎1951-2009』
『忌野清志郎が聴こえる 愛しあってるかい』(神山典士、アスコム)
『文藝別冊 忌野清志郎デビュー40周年記念号』(河出書房新社)
ウィキペディア
スポニチアネックス
朝日新聞コラム
徹子の部屋



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★0歳(year number 22-4)

東京都中野区に誕生します。


★3歳(year number 16-7)開放・内省

実母の死により、伯母夫妻に養子として迎えられたそうです。

清志郎は子どものころから、自分が養子であることを知っていて、親がそれを自分に告げないでいることも知っていたと、のちに語っています。彼の言葉によれば、「孤独に耐える術を身に着けた」子供時代だったそうです。



大きな変化は

★19歳(year number 23-5)変化

フォークグループ「RCサクセション」として「宝くじは買わない」でデビュー。


清志郎少年は、学校に馴染めず、かと言って不良でもなく、物静かな少年だでしたが、
中学・高校時代から、エレキやフォークブームに刺激を受け、
同級生でバンドを結成し、オーディション番組に多数出場していました。
番組で合格したのをきっかけにレコード会社と契約。
はじめは、アコースティック系のバンドとしてデビューしました。

数秘的にみると、year numberの二桁が、なんと42歳まで続いています。
ソロ活動ではなく、一人より三人、四人の、誰かと調和やバランスをとっていくバンドマン志向が、ここからも伺えます。

小さいころから絵の才能もありました。高校時代には、未来の自分たちのバンドの活動を、ノート一冊の漫画に描いて、オールナイトニッポンに送って、番組で紹介してもらおうと試みたらしいですが、失敗に終わりました。



★21歳(year number 25-7)開放

「僕の好きな先生」がヒットします。

音楽人生のステージアップはあったものの、その後ヒットが続きませんでした。
ヒットした曲は正攻法ではなく、イロモノ的だったと本で語っています。売れる曲と作りたい曲のギャップ・・・その後の曲作りのイメージでかなり悩んだそうです。そんな葛藤の中で、バンドとしても低迷期が続きました。



★25歳(year number 20-2)調整

事務所移籍。移籍と同時に発売しようと企んでいたアルバムが、契約条件のためにお蔵入りに。

契約が切れた後の1年間はレコードが出せないということで、レコードも出せず、バンド活動もままならずで、バンドの方向性を見直すことになりました。「個人と共同体」のジレンマに。仲良しの友達同士から始まったバンドマンのターニングポイントを迎えることになりました。


★26歳(year number 21-3)創造

メンバーの脱退の後、さして面識もなかった売れっ子ギタリストにより、ロックの新生RCへ。

偶然なのか、必然なのか・・メンバーが抜けて途方にくれていたとき、彗星のごとくあらわれたのが、RCのファンでもあった売れっ子ギタリストの春日さんという男性でした。彼のアドバイスやギタリストとしてのバンドへの参加により、ロックとしてのRCの原型が確立されていきました。高校時代に描いた漫画の通りの「夢のバンド」に近づいていったようです。曲にも新たな表現力が生みだされ、今までにない作品となっていきました。


★29歳(year number 24-6)調和

「雨あがりの夜空に」やアルバム『RHAPSODY』のヒットで、メディアの寵児に。

メンバーの脱退や加入を繰り返しながらも、低迷期に蓄えていた曲など、本当に自分のやりたい音楽が形になり、精力的にライブ活動を展開していきました。ライブでの人気も高まり、世間一般にRCサクセションの忌野清志郎が認知され始めました。ミック・ジャガーなどの影響でメイクを始めたり、パンクファッションにしたりと、一度見たら忘れられない、清志郎ファッションも確立されていきました。



★31歳(year number 26-8)繁栄

坂本龍一とのコラボ「いけないルージュマジック」でRC以外のユニット活動も。

テレビのCMにもなった「いけないルージュマジック」のユニット活動は、忌野清志郎の認知度をさらにアップしていきました。万人受けするとは言えないまでも、強烈な印象でお茶の間を賑わせていたのは確かです。



★34歳(year number 20-2)調整

事務所独立。その反面、個々のソロ活動が多くなり、バンド活動が低迷する。

数秘的にもセカンドサイクルに入り、「4」の安定から「2」の調整やバランスになったころです。pinnacleが9でchallengeが5なので、音楽やバンドとしての完成形に向けても、必要なことと不必要なことを取捨選択していき、その変化を受け入れるサイクルになっています。

実際に、自分たちの事務所を作って自由度をましたかのようで、バンド的には不協和音が発生していたようです。一つの目標をみんなが目指していた時代から、それぞれの方向性が変化していき、新たな道を模索していた時のようです。



★37歳(year number 23-5)変化

養父母の死をきっかけに、実の両親や弟のことを知る。

養母の死をきっかけに、養父が実の子ではないことを教えてくれたと清志郎は語っていますが、養子であることは小さい頃から知っていました。その養父の死をきっかけに、親戚の方から、実のご両親のアルバムや手紙などを初めて渡されたそうです。実の父は、弟だけをひきとって別れたことや、母親の写真、母親が歌が上手くてみんなをいつも笑わせいたことなど・・まさしく母の様子は清志郎そのものでした。それから、いつも母の写真をポケットにしまって持ち歩いていたそうです。長年の謎を知り、涙を流し浄化していくことで、今までとは違う心の変化がおきていったのは間違いありません。それは、曲作りにも大きく影響していきました。


★38歳(year number 24-6)調和

長男「たっぺいくん」の誕生。

30代後半で結婚し、長男が誕生。ライブで替え歌にしながら喜びを表現するなど、親バカぶりも発揮されていたようです。バンド内のメンバーはギクシャクしながらも、year number 6のとおりに私生活ではお喜びごとの年となりました。


★40歳(year number 26-8)繁栄

RCの無期休業宣言。個人事務所設立。

「忌野清志郎のRC」ではなく「RCの忌野清志郎」と常に語っていました。
ゴタゴタからの解放感があったとはいえ、この休業は、清志郎自身の一部だったRCがなくなり、ぽっかり大穴が空いた大失恋気分だったそうです。解散後の一年はとても新しいバンドを始める気分にはなれなかったとのことです。

過去から独立する機会にはなったようです。心の痛みはあったものの、繁栄の8、無限大の8のサイクルであることもあり、これからのステージの広がりが予想されました。


★43歳(year number 2)調整

俳優活動に挑戦。映画「119」の音楽を担当。新たな分野に挑戦。

year numberがはじめて一桁になった年は、役者や映画音楽という今までにない分野での仕事を積極的に広げていきました。これをきっかけに、様々な芸術の分野で表現をはじめています。



★44歳(year number 3)創造

映画『119』に音楽監督として参加し、第18回日本アカデミー賞で最優秀音楽賞を受賞。

RCサクセションの解散以降、前にも増してさまざまなバンド・ユニットを渡り歩き、その時の自分の気分に合った曲を作り続けてきました。活動の場は広がり、映画の音楽をはじめ、CMソング、時には絵本作家として、時には役者として、清志郎の個性を様々な分野で、楽しみながら発揮していた時代だったと思います。




★55歳(year number 5)変化

音楽の聖地「メンフィス」でアルバム「夢助」をレコーディング。
その2ヶ月後に喉頭癌で入院することを発表し、すべての音楽活動を休止。


メンフィスのキングオブソウル「オーティス・レディング」。
清志郎が、最も影響を受けたミュージシャンの一人だそうです。
その聖地でアルバム『夢助』をレコーディング。
新たな始まりを予感させました。
しかし、その発売をまたずに、喉頭癌がみつかり、入院治療を余儀なくされました。
癌の摘出をすると声が出なくなると宣告されたことから、手術はしないで治す方法を選んだと聞いています。
その決断は、最後まで、うたを歌い続ける覚悟だった、彼の強い思いを感じることができます。


★56歳(year number 6)調和・完全

日本武道館にて『忌野清志郎 完全復活祭』を開催し、本格的に活動を再開。

日本中のファンが待ち受けていた復活祭。清志郎の歌声は変わっていませんでした。
サイクル6が表すように、愛を学び、愛を与え、すべてを、あるがままを愛することを教えてくれる愛と調和のライブだったと思います。



★57歳(year number 7)開放・信頼

転移のため、ライブ活動を休止。

治療に専念しながら楽曲提供、ライブの飛び入り参加など、音楽活動も再開。ライブ活動はお休みしていましたが、精力的にできる限りの音楽活動を行っていました。まわりの存在を信頼し、今という時間を大切にして、精一杯生きていたと思います。


★58歳(year number 8)達成

2009年3月に体調不良で入院。5月2日に58歳の人生の幕を閉じ、天へと旅立たれました。

青山葬儀所でファンなどを対象にしたロック葬が行われ、弔問数は4万3000人に及んだそうです。

本人いわく、闘病後の復活祭では、「椅子にすわって地味に復活するのかと思ってたけど、バンドに戻れて本当に幸せだぜ!」とステージで声をはりあげてくれました。まだまだやりたいことはいっぱいあったかと思いますが、生涯ソロミュージャンではなく、バンドマンにこだわり、バンドマンを全うしたことは、彼にとっては本当に幸せだったと思います。



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最後に、
派手なようで地味な人だった、そんな清志郎の58年の人生は、つらいことも寂しいこともたくさんあったかと思いますが、誰に対しても平等で優しさにあふれた愛は、いつも私たちの心を明るく照らしてくれました。

歌と声で表現される彼のパフォーマンスは、日本を、世界を平和にしてくれるものだと思います。
永遠に私たちの心に生き続けるでしょう。



清志郎、たくさんの愛をありがとう!
「愛してます!!!!!」



清志郎の歌声をお聞きください
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reported by Moco
AEONS Numerology Basic the 10th class @ Yokohama
         
by kej000 | 2016-07-25 21:08 | 数秘レポート