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すべての経験を学びに変えて*ヒロミ・・『言い訳しない人生』 VOL.2




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ヒロミ

『言い訳しない人生』

Vol.1 に続く



《History》

Cycle number  その時期の学ぶべきテーマ
Pinnacle number どんな状況の時か
Challenge number その時期にチャレンジすべき課題


0-27歳
1965年-1983年
Cycle number 2 Pinnacle number 6 Challenge number 2
若年期(Month 2-Cycle/Challenge 2 受容)

1965年 昭和40年 東京八王子市に生まれる。父は大工。
遊びといえば、2歳上の兄について、山でアケビやザクロをみつけて食べたり、川で魚を釣ったり、素手で捕まえて焼いて食べたり。野生児でした。
後に釣り、マリンスポーツ、登山、様々な遊びが、彼の人生に大きな意味を持つことになりますが、この幼少期の野山での原体験がベースにあるのでしょう。また、家の前が父の作業場だったこともあり、小さいころからノミやノコギリを使い、木で色々な物を作っていたと言います。そのDNAと経験は皆様もご存じの通り、現在バラエティー番組でのリフォーム&リノベーションで遺憾なく発揮され、いったいどれだけマルチな才能があるのか舌を巻いてしまいますが、彼にとってはお手の物、という感じでしょうか。

子供の頃から自分でも認める甘えん坊でしたが、8歳の時に両親待望の妹が生まれ、家を継ぐ長男、可愛いがられる妹の狭間で、子供心に親のひいきを感じていたといいます。「次男である自分はいつかは家を出て行くものだと思っていた。」次男という立場を子供心に受け入れながら成長していきます。

中学時代はいわゆる「不良」の仲間入りです。人の影響を受けやすい9番、Cycle 2の中で、自分の兄達がそうなるのですから、彼にとっては自然の流れであったのでしょう。
しかし「どうせ悪いことをするなら、堂々とやる」そんな意味も分からないような「不良の美学」があったといいます。そしてその美学こそが、彼の行動哲学ともいえる「言い訳しない」生き方の原点かもしれない、とも述べています。

工業高校の機械科に進んだ1980年代。「自身の人生の中で一番刺激的な年代だった。」
「八王子に生まれてバイクに乗っていたら、みんな暴走族になるんだ。」
2月の早生まれだったヒロミさん、やっと16歳になり、免許を手にします。そして、「暴走族に入ります、辞めます、なんてものはなかった。」自然の流れで、仲間入りし、何百台のバイクと一緒に爆走するわけですが、ここでも義理や上下関係、周りをよく見て空気を読んで行動すること、様々なことを学んで行くのです。まさに誕生数・人格数ともに9の資質がこの頃より発揮されているのです。またこの時代に磨いた、先輩に怒られないようにからかったり、笑わせたりする術。失敗したら大変、命がけだったと言いますが、自然数 3 コメディアン度数No.1の3の波動、これがお笑い芸人としてのその後に生きてくることになります。


*1983年 18歳 (Year Cycle 27)
高校卒業間近、工業用工具の会社を経営する叔父から声が掛かり就職を決めます。サラリーマンを経験することになるのです。しかしまだまだ遊びたい盛り、土日は地元の仲間と車を乗り回していました。誕生数 9は冥界との関連のある数字。ヒロミさんは人生で2度も、生死を彷徨う大事故を経験しています。その1度目が、就職して3カ月目の7月。地元の仲間と集まった土曜の夜。心霊スポットで有名な奥多摩での肝試しレース。雨の中、タイヤが滑り、車がスピン、ガードレールにぶつかり、田んぼに突っ込みます。運転していたヒロミさんは車の外に放り出され、脾臓破裂の大怪我を負ってしまうのです。家族も「死を覚悟」と宣告され、泣いている父を見て、自身も「死ぬかも」。しかし、心底「死にたくねー。」と思ったといいます。「父を見て」と書きましたが、著書やTVトーク番組での本人談を総合すると、おそらく幽体離脱?の状態であったのではないでしょうか。


そしてこの事故が彼の人生を大きく変えていくことになります。
臓器の一つがなくなっても人は生きていられるのか、「もしかしたら、自分は長生き出来ないかもしれない。だったらやりたいことをやろう。」しかし、それまでやりたいことを真剣に考えたことすらなかったことに気づき、人生を考えるきっかけになって行ったのです。「嫌なことがあると、いいことの始まり。」と考えるようになるきっかけにもなったと本人が述べています。

またそれまでテレビを見る機会があまりなかったヒロミさんですが、この入院中はテレビばかり見ることになります。ビートたけしさん、明石家さんまさんが好き勝手にしゃべるのを見て、「『自分もテレビでしゃべりたいな』、と単純に思った。」と言います。

三か月後、叔父の会社の仕事に復帰するも、人生このまま機械工具の営業でいいのか、と思い始めます。しかし、散々迷惑もかけ、義理もある。いつ話そうか考える日々が続きます。6番の誠実さ、優しさ、揺れやすい6番と9番を合わせ持つゆえに、決断は苦しかったことでしょう。

そしてやめる決断をし、社長室に向かうと、
「あのね、おまえクビね。」
甥がいろいろ考え結論も出ていることを察していた叔父の優しさでした。その優しさを6のヒロミさんはしっかりと受け取るのでした。

その後、柴田恭平さんの映画「チンピラ」に憧れ、一時期チンピラを目指すも、これは難しかった模様、バイトを探すもなかなか採用にならず、新宿歌舞伎町のホストクラブにやっと仕事を見つけます。ここであるお客の女性から
「ヒロミ、面白いんだから、芸人になればいいのに」と言われます。
コメディアン度数No.1 、人を楽しませることに長けた3番をYear NumberとNatureに併せ持つ、彼の天性の才能がここから花開いていくことになります。


*1986年 21歳 (Year Cycle 3 創造力開花・忍耐と経験)
B-21スペシャル結成
そのホストクラブのお客の女性がのちにヒロミさんがったった一人、『師』と仰ぐ、セントアンドルイスの星セントさんと引き合わせてくれるのですが、初めて会った時には、「芸人は簡単ではない。やめたほうがいいよ。」と諭され、帰されます。ところが、辞めた方がいいと言われ、逆に心に火が付きます。

ホストクラブの仲間だった、デビット伊東、ミスターちんを誘い、トリオを結成、ヒロミがネタを考え、店が終わってから朝まで、3人で一生懸命練習したのです。そして、星セントさんにも「弟子」ではなく「後輩」として認められ、教えを請うことになります。3人のトリオ名「B21スペシャル」もセントさんが付けてくれました。

そして六本木のショーパブ、バナナパワーに出演の機会を得、サラリーマン、OLその他、様々な層の客を飽きさせないトーク術、客いじり。ここで鍛えられて行きます。しかし、その頃、東京のお笑いの登竜門のひとつでもあったバナナパワーも親会社のあおりを受け、この年閉店に。この閉店を機に本気でプロダクションを探し、「プロダクション人力舎」所属を決めます。

しかし、プロダクションに入ったものの、すぐにテレビに出られるわけではありませんでした。その当時はテレビ出演より地方営業の方がギャラが良かったのです。人力舎の方針もテレビはあくまで「営業の為の露出」でしかありませんでした。3人は、辛い思いもしながら地方のキャバレーの営業からおかまパブ、刑務所の慰問までを地道にこなしたのでした。その一方で、新人ライブやテレビのお笑い勝ち抜き番組にも挑みます。『ザ・テレビ演芸』では10週勝ち抜きシリーズで見事10週勝ち抜き、審査を担当していた糸井重里をして、『ネタだけなら今売れている芸人の誰にも負けない』と言わしめるほどでした。もちろん、ネタを書いていたのはヒロミです。Intelligenceの「7」が光ります。ほどなく、ダウンタウン、ウッチャナンチャンらと共に、「お笑い第三世代」と呼ばれるブームに乗り、ブレイクを果たします。


*1990年 25歳 (Year Cycle 7ステージアップ)

ゴールデン・アロー賞新人賞受賞 

*1991年 26歳 (Year Cycle 8 軌道修正)
8は、軌道修正のために現実的な問題も起きるナンバーでもあります。Year Cycle8の年の正に8月、レギュラー番組中大やけどを負い、再び生死の境を彷徨うことになるのです。火傷は身体の21%に及び、家族は命の保証はないことを告げられます。
一命を取りとめたものの、火傷の痛みだけでなく、毎日のガーゼ交換の痛みは壮絶、何度も気を失ったと著書に記しています。治癒の段階での痒みも筆舌尽くしがたいものだったでしょう。
番組も打ち切り、医者からは歩行は無理、と告げられ、芸能界をやめることも覚悟、人力舎を辞めることを決断します。

*1992年 27歳 (Year Cycle 9 次の光へ) 
芸能界を辞める決断をすると、気持ちが楽になったことが幸いしたのか、リハビリも進み、体も順調に回復します。無理かと思われたテレビの世界へも再び戻る目途が立ちます。しかし、事務所を辞めると言った手前、そのまま事務所に残る選択はしたくありません。ですが他事務所へ行くのは芸能界のルール違反。「自分でやるなら、独立を認める」との玉川社長の言葉に、義理を重んじるヒロミさんは、「最終的な責任は自分で取る」と決め、個人事務所 ビ-カンパニーを立ち上げます。

玉川社長に教わったことの一つが「社長の仕事は謝ることと金の工面」と著書に書いていますが、独立するものの、お金がうまく回り出すまでには、社長に教わったごとく、3年かかったそうです。B21メンバーと社員に給与を払うため、それまで断ってきたピンの仕事も必死に引き受けるようになって行きます。
翌1993年から、Challenge Numberは1。社長としての責任、そしてテレビではピンの仕事で「個」を打ち出して行くことで、更なる飛躍を遂げていきます。バラエティ番組の司会者としても頭角を現して行くのです。




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28-36歳 (1984年-2001年)
Cycle number 4 Pinnacle number 7 Challenge number 1

*1993年 28歳 (Year Cycle 10)
この年、アイドルで活躍中の松本伊代さんと結婚します。Year Cycle 10での結婚は0のバイブレーションでは楽しい家庭、1と読めばまさにソウルメイトとの結婚とも読み取れます。そして、この1993年からCycleが4、Pinnacleが7と、ともに変化。伊代さんとの結婚がヒロミさんの人生にとって非常に意味あることであったとわかります。人生の伴侶を得、4-家庭の基盤を築き、そして芸能界では7のステージアップ。この年から約10年、多くのレギュラー番組を持ち、MCとして超売れっ子の日々が続いていきます。しかしPinnacle 34-7が示すものは3-自身を表現することで4-安定を確立するのと同時に、7-探求と内省を求められる日々でもあったとも読めます。


*1995年 30歳 (Year Cycle 3)
長男が誕生。2年後には次男が誕生します。仕事にも恵まれ多忙を極め、スタッフとの打合せ、飲み会で帰りも遅い日々。それでも伊代さんは文句1つ言わなかったそうです。忙しい中でもヒロミさんはお風呂と夜中のミルクの準備はしていたと言います。15歳からアイドルでやってきた伊代さんが母になっていく姿に、「女の人は凄い。どんなに男が威張ろうが、結局男も女の人からしか産まれないことを目の当たりにした。」
運命数、ソウル数ともに6。愛情と家庭がテーマの彼らしい言葉ですね。




37-45歳  (2002年-2010年)
Cycle number 4 Pinnacle number 4-13  Challenge number 1

*2004年 39歳 (Year Cycle 12)
1995年から始まる、3のサイクルの最後の年、ヒロミさんは大切な人を失います。
放送作家 吉野晃章さん。ヒロミさんが芸能界に入った頃から一緒に番組を作ってきた人です。ヒロミさんにとっては「いつでもどんな時でも、俺の味方だった」大切な人。元々とんねるずの二人の高校の同級生で、とんねるずの番組も多く担当していました。亡くなる1年前に肺ガンが見つかり手術を受け快方に向かうも、翌年、急性白血病の診断。

6のアマチュア、『依存』。芸能界デビュー当時から一緒に企画を練ってきた吉野さんを失ったことで、芸能界で働く意欲も失せて行ったのではないでしょうか。また「芸人としての師匠はこの人だけ」と公言する、セントアンドルイスの星セントさんが7月この世を去ります。

この年4月、『発掘あるある大事典』MC降板を境に、仕事が激減、テレビからははぼ姿を消します。「干された」というのが本当だったのか。毒舌、生意気、大物芸能人にも媚びを売らないスタイルが売りでしたが、その傍若無人ぶりがあだとなったのでしょうか。
Pinnacle Numberを見てみますと、2002年から4-13に変わっています。この13は創造と破壊、修練の厳しいナンバーでもあります。数秘的に見ると、更なる飛躍のための浄化を経験することが示唆されているのです。

あるある大事典で共演の堺正章さんの怒りをかったのが『干された理由』とも噂されました。『俺のことを切ったと思われる人』は確かに存在すると思われますが、それが堺さん、というのは本当ではないようです。

世間はバブル崩壊後の不景気が続き、暫くはそのあおりを受けずに来たテレビ業界にも徐々に厳しさが増していました。番組制作側も、スポンサーの意見を無視はできなくなっていたでしょう。番組のイメージを良くするために、これまでの生意気・毒舌のスタイルは敬遠される傾向にあったのかもしれません。しかし、ソフトさも求められても、「変わろうともしたが、そう簡単に変われるものでもない。」そして、風向きが変わってきたのに、そこにしがみつくこともヒロミ流ではありませんでした。

彼のコアのナンバーは揺れやすい6と9ばかり。どの様な思いでいたのでしょうか。レギュラー番組がなくなったのを機会に、海外に行って大学に通うことも考えたそうです。しかしそれを止めたのが、堺正章さんだったと言います。『駄目だよ、海外に逃げちゃ。』堺さんの言葉に「逃げるって思われるのも嫌だ」そして「現実を見なさいということだ」と受け止めたのです。
Year Cycle 12は『パターンの打破』方向転換のきっかけの年でもあったのでしょう。経営者へとその軸足をシフトしていったのです。


*2005年 40歳 (Year Cycle 4)
この年から4のサイクルに入ります。経営者として、そして本気で遊ぶ、『時遊人』として、新たな基盤を作り上げていく最初の年です。この年からブライダルビジネス、テイクアンドギヴ・ニーズの野尻佳孝さん、サイバーエージェントの藤田晋さん、など、いわゆるヒルズ族と呼ばれるような、若手実業家達と遊びを通じての交流が始まっていました。
アメーバブログを始めたのももちろん、藤田さんの勧めです。「遊んでいた、というより、遊びを教えていた。」と言っていますが、若い時からビジョンを持ち、ビジネスでの成功を目指す、今まで彼の周りにはいなかったタイプの人間との交流が彼の次のステージへの方向転換のきっかけになって行きました。

トライアスロンを始めるのもこの年。トレーニングの必要性を感じ加圧トレーニングのジムに通い出したことがその後経営を始めるきっかけになったのです。トレーニングが楽しくなり、ライセンスも取得。自身もインストラクターの資格を取ります。経営は軽い気持ちで始まったといいますが、加圧トレーニングのブームに乗り、軌道に乗るにも時間はかかりませんでした。
昼間は大好きなバイクや車の改造に没頭したり、ゴルフ、登山。夕方からはジムへ。そんな過ごし方をされていた様です。時間ができた分、とにかく遊びにも一生懸命なのです。

46歳~ (2011年~)

Cycle number 3 Pinnacle number 5  Challenge number 1

*2012年 47歳 (Year Cycle 11)
この年、カーヴィーダンスで一躍有名になった、カリスマトレーナー、樫木裕実さんが独立。そのトラブルがワイド―ショーでも毎日取り沙汰されましたが、樫木さんが所属していたジムのオーナーがヒロミだったということで、驚かれた方も多いことでしょう。
彼女の独立で他のスタッフにも動揺が走り、独立についていくスタッフ、辞めるスタッフ、辞めて独立するスタッフも相次ぎ、お客さんも流れます。売り上げは半減、経営はかなりきつい状況に陥ります。店に残ってくれたスタッフのためにも、なんとか状況を乗り切りきろう、と、誕生数の欄でお伝えした通り、宝物のバイクや車を思いきって手放すのです。Year cycle 11の不必要なものをさらに絞り込んで手放す時でもありました。どう生きていくのか、決断を迫られる出来事が来るのも、この11の年なのでした。大事なものを手放す姿をスタッフに見せることは、スタッフのためも、絶対に店を守っていくという、意思表示でもありました。


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2012年は奥様松本伊代さんデビュー30周年。記念コンサートではサプライズで同じ衣装を着て出演、仲むつまじい姿を披露してくれます。

*2014年 49歳 (Year Cycle 13)
松本伊代さんがテレビ出演するにあたり、伊代さんについての話をする、という仕事が舞い込みます。自身がメインの仕事ではなかったのですが、伊代さんが面白い人、天然キャラということを伝えたかった、と言います。視聴率が良かったことから、次第に仕事のオファーが来るようになります。ここからの活躍は皆さんご存じの通りです。

一視聴者として、テレビの前でぶつぶつ言うヒロミさんに対し「そんなに言うなら自分でテレビで言えば?」と伊代さんに言われたことも再ブレークのきっかけだったとか。

*2015年 50歳 (Year Cycle 5 変化と自由 マルチ)
5のサイクルのスタートのこの年、6月に第34回イエローリボン賞(ベスト・ファーザー)芸能部門受賞

7月には伊代さんと「第3回ベストエンゲージメント2015」ベストカップル賞を受賞

ヒロミさんのCycle Numberは2011年46歳から3に入っています。実はこの3、#21-3なのです。#21は「人類救済」のミッションが託されているのです。9番のミッションは、
「愛と理解力を持って、穏やかに人類愛を実践する事」
「人を感化・教化させ得る才能を活かし、人を導く力を実践する(公的使命)」

「自分は遊びに救われたから、遊ぶことの楽しさもみんなに伝えていきたい。
いつか、『大人の遊びの学校』を作っておじさん達に遊びを教えたい。」


と著書の中で述べています。現在経営するトレーニングジムは後輩に譲り、ご自身は40~50代の人向けに、トレーニングとリンクさせた『遊びの学校』を作りたい、と構想をお持ちですが、「お金をとらず、何か教えてほしい人だけが体でいろんなことを覚えていく場」とおっしゃっています。『お金をとらずに』ということは、何か公的使命の様なものも感じていらっしゃるのでしょうか。絶対にそこは頑張っていただきたい、家族のために働きづめの日本のおじ様達を「遊び」で解放してあげてください!

奥様の伊代さんも52歳から同じくCycle Number 21-3。お二人はやはり特別なミッションを持ち、なるべくして夫婦になったお二人の様に思えてなりません。伊代さんも9番をお持ちです。全てを受入れる真の強さを持った方なのです。これからお二人で、どんな活躍をされるか楽しみでなりません。


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Reported by
Aeons the 11th Numerology Basic class in Kawagoe
Midori Nagamine
by kej000 | 2017-02-06 00:18 | 数秘レポート