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文豪の葛藤*太宰治・・・数秘学で読み解く深層心理

アイオンズ数秘基礎クラス・第七期生の修了課題レポートです。

このレポートは、小さい頃からの太宰ファンと自称する彼女が、太宰治という、その人の内面の葛藤に迫る、繊細な深層心理にまで至るリーディングにより書き上げた特筆すべきレポートでもあります。




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太宰治


作家】太宰治(1909.06.191948.06.13

本名 津島修治(つしましゅうじ)

生年月日 1909619日生~1948613日没

青森県北津軽郡金木村(現:五所川原市)の県下有数の大地主の第十子六男として生まれる。


Birth Number

17-8.

Destiny

6

Soul

10-1.

Personality

5

Realization

14-5.

Stage

4




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●【Birth】誕生数 17-8

情熱的で洞察力があり現実的。カリスマ性があり地位や名誉を大事に思う、とてもパワフルな組織的なナンバーです。

ですが、悩み深く、衝動的で利己的、反権威主義、自己制御力の欠如のような部分も併せ持っています。

太宰にとって富と権勢の「津島家」は、家族や家庭というより「絶対的な支配者(父や兄)の元での裕福な小社会(組織)」であり、それ故に本当の社会に接するとき葛藤が起こり自分の生と将来の存在価値を疑い悩みが多かったようです。

17のキーワードの自己信頼。太宰の人生にとってかなり大きな課題であったと思います。

また金銭面については、29歳の結婚を機に自分で稼けるようになっていきます。


14歳の頃に井伏鱒二氏の「幽閉」を読んで深く感銘した太宰は、ずば抜けた文才を生かして「感銘した」という想いだけで終わらせるのではなく、小説やエッセイを書き始めます。

そして16歳の頃より、文学仲間を糾合して同人誌「蜃気楼」の編集兼発行人を務めます。

情熱や実行力、リーダーシップ、自分が中心となり人を集めての同人誌運営などの組織的なところ等、8の持つ特性が出ているのではないでしょうか。



●【Destiny】運命数 6

6は調和、美・善・真

人間関係、恋愛、特に家族からの学びのナンバーといわれています。

太宰の父親は仕事で忙しく母親は病弱なため、乳母や叔母、女中に育てられたため

親の愛を知らない少年だったようです。

6は相手を通して鏡にして、愛や人間関係を学ぶものだと思います。

幼少期にそれを学ぶことができなかった彼は、自分の存在自体、あるがままを愛されるということを知らず、愛されたい気持ちが人一倍強かったのだと思います。誰かに自分が必要とされることで存在意味や価値をはかり、自分を否定されると猛烈に反撃しています。

彼が本当の自分を愛していない、信頼していないところからくるものだと思います。


懇意にしていた地方にいた芸妓さんに身請け話が出たとき、動揺して東京に呼び寄せたといいます。名家の息子が芸妓を呼び寄せたと郷里で騒ぎになり本家から除籍にまでなったそうです。愛されたい気持ちが強い太宰は、自分がしてほしいことを彼女にしたのではないでしょうか


●【Soul】ソウル数 10-1

内面性や価値観をあらわす数字です。

カルミックナンバーの10は、一般的に裕福なお家で育ち苦労が少ない人生なのにあるとき別の人生に向かう・・・再誕生のナンバー。

1で見た場合は、行動力があり、頭の回転が速く、リーダー気質、ピュアな心

幼少期は、勉強もできて持ち前の茶目っ気でクラスの中心人物で、級長になり人気者でした。


●【パーソナルナンバー】人格数 5

5の特徴として変化、自由、多才、話術にも長けていて、外見や中身両方で魅力的な人が多いナンバーです。

彼の写真やエピソードを見る限り、はやり生まれもった外見と才能のオーラとチョイ悪だけど憎めないキャラクターに魅了された人多数だったようです。



●【Realization】実現数14-5

14-5 14錬金から、二極の異なるものや人を上手く取り纏め融合し、変化のある自由な世界を切り開いていける人です。

そこから、カルミックナンバーの14、本当の自由とは何か?が課題となります。



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~太宰治の人生年表~


太宰の人生での気になる大きな出来事をピックアップして、見てみたいと思います。


●【サイクルナンバー】どのようなことを学ぶ時期か ※没年が38歳のためここまで


★《0歳~28歳 ナンバー6

人間関係や愛について学ぶ運命だったようです。

太宰は28歳までに4回自殺未遂しています。

それぞれ表面上の理由は違うようですが、人に愛されたいと思いながら、自分で自分を愛してない、自己信頼ができていないことが原因だったのではないかと思います。

★《29歳~46歳 ナンバー10-1

10-1は、人間関係を学んだあとは、不必要なものはなくし気持ち新たに出発しましょう。目覚めのナンバーです。

また、カルミックナンバーである10は、ある時期まったく別の道へ進むことにもなる。とも言われています。


29歳のときに、井伏鱒二氏の紹介でお見合い結婚をすることになります。

この結婚を機に、何度も失敗した自殺未遂から立ち直ろうと新たな決心をしました。

精神的に安定した結果仕事も順調で、「走れメロス」「お釈迦草子」「富獄百景」「斜陽」「人間失格」などすばらしい作品を残す時期となります。


●【ピナクルナンバー】どんな状況の時期か


★《028歳 ナンバー7

7は内省と探求のナンバー。色々なことを学んで知識・知性を深め、自分は何がしたいのか、何を求めているのか、しっかり考えなさい。ということ。

★《29歳~37歳 ナンバー2

2は受容です。物事をそのまま受けいれ調和を大切に。協調性やバランスの大事さを学ぶ状況だったようです。

★《38歳~ ナンバー9

9はドラマチックなナンバー。核が見つからないと、グラグラ揺れてしまいます。精神的に成長しないといけない状況の時期。


【チャレンジナンバー】与えられた試練や今回の人生での課題


★《028歳 ナンバー5

キーワードは自由と勇気。変わることを恐れないで勇気を持つこと。

★《29歳~37歳 ナンバー9

9は不必要なものは手放し、本質を見抜いていくこと。そして変容。

自分の軸をしっかり持たないと、揺れてしまいます。

この時期、いかに見極めていけるか。

変わりたいけど変われない。

変わるにはエゴを捨てなければいけない。本当に大きな課題だったと思います。

★《38歳~ ナンバー4》

4は基礎固め・土台のナンバーでもあり、コツコツとまじめに物事を進め、現実の側面を体験して学んでいきます。



【イヤーサイクル】


14歳 ナンバー224

太宰は14歳の時、井伏鱒二の「幽閉」を読み「座っていられないくらいに興奮した」といっています。

22は無から有を作るナンバー。この時無意識に作家への道に気づいたのではないでしょうか。


16歳 ナンバー15 

この頃から、小説やエッセイを級友と同人誌を作り発表し始めます。

芥川龍之介や泉鏡花に憧れ、作家を志望するようになります。

サイクルチェンジされた年です。

15はライフワークに目覚めたものが夢を拡大する時期。

太宰自身は作家がライフワークとは気がついていなかったとは思いますが、夢への第一歩を踏み出したのがこの頃のようです。


19歳 ナンバー189

18歳のとき、敬愛している芥川龍之介氏が自殺してしまいます。

これに大打撃を受けた太宰は、勉強がおろそかになり義太夫、花柳界、読書三昧など明らかに今までの優等生から違う方向へシフトしていきました。

ですが、19歳のとき、「細胞文芸」という同人誌を発刊し創作活動を再開します。

この「細胞文芸」は太宰文学の原点といわれており、この時期に文学に生きる覚悟を固めたようです。

18は二者択一のナンバーです。文を書くことをやめるか、続けるか。太宰は作品を通して、自分の考え・意思・思いを吐露していく道を選んだのだと思います。


20歳 ナンバー1910

この頃急激に左翼思想に傾斜していき、自分が資産家の息子であるという自己出身階級に悩み、また「家」との関係、特に兄との関係に悩んだ末とおもわれる、単独で第一回目の睡眠薬による自殺未遂を起こします。

19は否定的要素の克服をする年。カルミックナンバーでもある「19」は家族や自分の殻から抜け出ようともがき、また悪癖の耽溺や過度の不安や傷つくことを恐れてしまうのを意味するナンバーでもあります。

ソウルナンバーに10を持つ太宰。10は生命の木でいう一番下、現実社会を表し、変化の波がやってくるナンバー。だから余計、自己不信や不安が大きくなったのでしょうか。

自分の思うようにならず、自分の理想とするものと現実のギャップに悩み、だした結論が自殺。安易な道(死)によって清算はできてない。と神様からのお告げにより未遂で終わったのでしょうか。


21歳 ナンバー202

太宰は屈折した罪悪感(実家からの仕送りで豊かな生活を送る一方、それに対する自己嫌悪や生い立ち)から、8のアマチュアにもある「反権威主義」、左翼運動に没頭し、反帝国主義学生同盟に加わり、シンパ活動にはまります。

かねてより付き合いのあった芸妓を上京させ(運命数6のところの話)、本家の除籍等を条件に結婚を承諾してもらい、その芸妓と結納を交わします。

ですが、除籍(義絶)の真意はシンパ活動にあったことを知った太宰は、なぜか3回しか会ったことない女性(田部シメ子)と心中を図りました。(二回目の自殺未遂)

シメ子は亡くなり太宰は生き残り、後々まで心の傷となる事件になったようです。

イヤーサイクル20は、共依存・依存に注意であり、境界線がない時期でもあります。

この心中事件は、さまざまな要因が重なったもので偽装ではないかとも言われています。

なぜシメ子と太宰が心中を図ったのかは、未だにわかってはいません。もちろん何か心に共感するものがあってのことでしょう。ですが、自己中心的な要素を持つ1や、愛の部分での6からみて、「除籍についての兄への不信感」「経済的な不安感」「親に認められたい」という太宰の幼稚な駄々をこねるような見境のないパフォーマンスにも取れていまい、それにシメ子が巻き込まれた気がしてなりません。

またイヤーサイクル18のときに「文学の道へ進む」と決めていながらも、その後もエゴの手放しがなされなかったために起きた事件ではないでしょうか。


  • 23歳 ナンバー22(誕生日前)

この年に小説としては初めて「太宰治」の名前で作品を発表します。

ナンバー22。夢の実現、無から有に向かう数字です。

14歳の頃のサイクル22で無意識に作家の道への一歩を踏み出し、この年で執筆名を「太宰治」とし乙種懸賞創作入選を果たし賞金を得ました。

作家という、ライフワークへ本格的に一歩踏み出したのがこの時期のようです。


また「太宰治」の名前の由来としては、「太宰」については、①同級生の苗字から取った説②万葉集の大宰権師大判から取った説があり、名前については本名の「修治」はどちらも「おさめる」なので2つもいらない。とのこと。深く考えて命名したものではなく「なんとなく」のようです。太宰の持つソウル1の直感的なものだったのでしょう。


  • 26歳 ナンバー 誕生日前 246

     ナンバー 誕生日後 167) ★サイクルチェンジ

お誕生日前、3月に3回目の自殺未遂。今回は単独。

大学へは行かず文学に勤しんでいたため授業料未納で大学は除籍、兄への申し開きのために受けた新聞社の入社試験も失敗し、自殺未遂を起こします。

24→長い間、兄にお金の面を含め庇護されて安定して生活していたが

自分の自堕落的な生活により除籍、言い訳のために受けた入社試験は不合格。どちらも自分のせい。依存の強い人生を送っていましたが、とうとう言い訳がきかない現実問題として現れます。そこからまた逃げるために自殺未遂を起こしたのでしょう。


誕生日後の16-7

サイクルチェンジをした26歳。「逆光」が芥川賞候補に挙がります。

ですが、結果は落選してしまいます。

16はタロットで言うタワー。破壊の年です。自己破壊的になることもありますが、自己改革の年でもあり仕事の情熱が高まり、とても高い理想を抱きます。

太宰は極端に自分を否定されることを嫌います。川端康成の「芥川賞」の選評を読んだ太宰は憤慨し文芸誌上で反撃しています。

憧れの第一回芥川賞候補になったが落選し、この頃より薬物中毒になってしまいます。

薬物中毒により周りに多額の借金をし、強制入院となってしまいます。薬物中毒は治癒しますが、入院により人格を否定された屈辱感と敗北感で人間不信に陥ってしまい、中毒は治癒したが心に深い傷が残ったことを窺わせ、退院直後に「HUMAN LOST」と題し日記風に綴り自らに人間失格の烙印を押したそうです。(これが後の「人間失格」の元になる)

この時、入院や治療に関わった人々からすれば、放置すれば太宰の肉体も精神も、作家生命も社会的存在としても破綻が見えており、治療を最優先したのは当然のことでしたが、太宰からしたら人間性の剥奪に繋がると思ったようです。

16のこの時にこれだけ大きなことが起こった時点で、周りに対しての怒りや自分の感情の根源にある甘えや依存というエゴの開放が必要だったのではないでしょうか。


28歳 誕生日前 ナンバー178

4度目の自殺未遂。今度は内縁の妻、芸妓だった小山初代が姦通を犯し発覚。そのため二人で心中しようとするも失敗。

この心中を題材に「姥捨」という作品があり、事実に沿うが事実そのものではないがそもそもいつの頃からか初代と別れたかったので、前年の入院と姦通を理由にしたいとの思惑が睡眠薬が少量というところから見て取れるため、この心中は本気ではなかったといわれています。

16での破壊の年にエゴの開放や不必要なもののそぎ落としがなされなかったため、また破壊的現象を起こしてしまったのだと思います。

178でもあるので現実問題に出てしまったのと、太宰のバースが8でもあるので直面すると衝動的・利己的になりやすいのかもしれません。


30歳 ナンバー1910

イヤーサイクル19、太宰のソウルナンバー10-1。誕生日19

太宰の人生で2回目の19です。

この年に井伏鱒二の紹介で結婚しています。

この時期の太宰には色々なことが一大決心だったと思います。イヤーサイクル19で見ると、新しい家族ができて否定的要素を克服した年。

10の結婚は○といわれています。

すさんだ生活をしていた太宰に、井伏鱒二らが再婚しかないと世話をします。



紆余曲折の末、結婚するに当たり文学一筋で身を立てるために借金の整理と、過去何度も失敗した自殺未遂から立ち直り奥さんを一生かけて守っていくと決意し、誓約書まで作成しました。

この結婚をするに当たり、特に実家からの支援打ち切りは、甘えの多い太宰にとってはとても重要な出来事だと思います。

太宰にとってとても大きな変化であり、今まで兄から受けていた支援もなく自立を促され

地に足を着ける方向へ進み始めます。精神的にも安定し薬物中毒もなくなり、この頃から「愛に満ち、明るさと温かさが溢れ、文章は平明でわかりやすく人々の心を慰める花のような感じ」な作品が多く、今までの病的、不健康のような退廃的な暗いマイナスイメージは無く、「太宰が自分の新しい生き方の見本、新しい理想像を書き出した」といわれています。

子どもの頃よりなんだかんだ実家の富や、親兄弟の監視の下、大人になっても自立できず文句を言いながら恩恵にあずかってることが原因で、自分が囚われていることに気がついていなかった太宰。

カルミックナンバー10は、再誕生のナンバー。ここで完全でなくとも、少しは清算が行われたのかと思います。


38歳 ナンバー 1910

「斜陽」「人間失格」を執筆・発刊

山崎富栄さんと心中自殺 

ちょうど帰京した年(イヤーサイクル17)のあたりから、平穏だった結婚生活も一変したようです。

作家として売れっ子になり高収入にはなったものの、そもそもがお坊ちゃまだった太宰の金銭感覚のズレで交際費や飲食代で家計は火の車、且つ想定外の多額の納税問題からの逃避、太宰は多忙で妻美智子は子育てに追われ家は荒れ果て、妻子を思いながらもいたたまれず仕事を理由に家を出て、半ば逃げ場としての二人の愛人との関係、文学活動における有力者への反発、生き方の違いが鮮明になり旧知の友との確執、新たな文学・出版関係者らとの付き合い、饗応に伴うストレスや自身の体調不良などが重なり、心身ともに疲弊の極みに達したようです。

最後の心中の理由は、①創作の行き詰まり ②山崎富栄の死の覚悟 ③心身共の長期療養計画 といわれていますが、はっきりしていません。

太宰は、たった39年の人生で自殺未遂・自殺が5回。

客観的にみて太宰自身に軸がなく、自分愛、自己信頼がないところから来るもの、極度の依存だったような気がします。バース17-817に移行できず、8でもがき続けてしまったのでしょうか。


今回の心中はお誕生日の1週間前だったので、イヤーサイクルは20で読みます。

20は審判のとき。

お金や愛人というのは、実のところ太宰にとっても最重要項目ではなく、

人気作家になったことで作品への注文や批判、私生活に対する非難、誹謗、中傷。そうした圧力は文学とは無関係であり、作家として純粋に作品に情熱を燃やしそのまま燃え尽きることを望んだとしても、周囲がそれを理解してくれない。との思いがあったのではないでしょうか。

太宰は上記のような圧力に対して「如是我聞」(太宰の連載随想)で猛反発したといわれています。ですがそれを理解者であった井伏にまでも執筆中止を求められ、意思や行動を束縛するする不条理に悩んだそうです。

帰京してからの23年間は、太宰の作家としての名声とお金は手に入れることができたのと引き換えに、分かっていながらも自分の思想を貫き通すことができず、結果本当に太宰が求める思想に反することをすることになり、もがいた晩年だったのでしょう。

時代なのか立場なのか、イヤーサイクル1820の間にしなければいけない常にエゴと向かい開放する作業どころか、自分が手放さなくてはいけないエゴと他人からのエゴの両方を背負ってしまったのかもしれません。

そして自分軸が無いため一番弱い依存心と甘えが、富江さん太宰と離れなくないという思いと太宰の現状から目を背けたい気持ちがリンクした結果だったのでしょう。




Reported by Yoshiko Takada

Aeons Numerology Basic the 7th class


by kej000 | 2015-03-06 23:10 | おもしろ数秘学

極北の旅人*写真家・星野道夫・・数秘学でその人の人生を読む

アイオンズ数秘基礎科第7期生のレポートで綴る
写真家・星野道夫さんの世界です。
アラスカに魅せられた、魂の鼓動が聴こえてくるような
そんな素晴らしいレポートになっております^


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星野道夫 

Michio Hoshino 

1952927日生


Personality


誕生数  8 35

3の楽しさとから始まったことを変化させていく 自分の力を信じてより高くより新しい可能性を開拓していく人 開拓した自分のオリジナリティーが8の持つ循環で自分だけでなく他者をも豊かにしていくことのできる人 向上心と直感力で現実を変えていく力があります。

5の持つ好奇心を知恵に変えて行くことができれば8の繁栄は約束されています。 変化は不安定と表裏一体なので、不安定さをどう克服していくかも彼の課題でもあったかもしれません。 

好奇心と情熱!少年のような無垢な気持ちと行動力で果敢に未知の世界に飛び出していきました。そのためにしっかり計画し実行して やりたいことを実現させていきました。

繁栄とは?豊かさとなにか?も彼の命題 アラスカに住んだ17年間の間には、金銭的にはとても大変な時期 試練もたくさん経験したことでしょう。

8は夢想家の数字でもあります。子どものころはくまのいる森 大学生の時はアラスカを夢見ていました。彼はアラスカに恋い焦がれてアラスカにわたり、アラスカでの最後の数年間は神話の世界を夢見ていました。



子供じみた考えなんですけれども、自分が全くいない、消えた状態で、上からそっとでもいいから、山の中を歩いているクマを見てみたいなあ、と思った。今この瞬間くまは自分とは関係なくどこか山のなかを歩いている。それを見たい。でも自分がそこにいたら、もう出会っちゃっているのだから自分のいない状態でクマは見られない。その自分のいないときのクマを見てみたいという憧れがあって・・・そんな風に思うとなにか現実の世界が漠漠としたものに思われてくる・・・・なんだか子供じみた、それだけの話なんですが・・・               インタビュー記事より



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運命数 destiny number 10-1

創造性豊かに新しい分野を0から構築した分野が人類の霊性を高めていくのに貢献することが、彼の使命。一人で何かをやりとげ、自分の創造性を余すところなく表現すべくうまれついた人 1は決断力の数字 決断力はアラスカでのサバイバルで磨かれていきました。

1の持つ開拓者精神と行動力 計画力で、自分の運命を自分で切り開いていきます。彼の創りあげた世界が、人々の霊性を高めるということでは、まさに彼の写真はそういう写真といえると思います。

人格数 personal number 101  

責任感のある人 明るいが、人見知り 性急さと短気な側面 性急さはうまくいくとタイミングを逃さない Pureなかんじ 急に機嫌が悪くなるとか?すごく陽気な面をもっているのに、すぐに落ち込むとか?子供っぽさを残す人だったかもしれません。 (よくも悪くも) 



このあとの3つの数字はすべて9 

実現数 realization number 9 

いらないものを手放して 自分と他人すべてを許すこと 自分だけでなくそれを超えて、混沌の中から人が自分の道を見つけていくこと 覚醒の道を歩むことを手助けすること 


ソウル数  9 内面の声や価値観のめやす

9は博愛の数字 自分の中の崇高さを感じる。 自己回帰して 深い慈悲の心を持ち真我を生きていくこと 悟りとは何か?内的探究をつづけて この世にいて覚醒すること 悟りを経験したい魂 

アラスカの大自然に身を置いたことは  彼の自己回帰の速度を早めていきました。



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☆生きるものと死すもの 有機物と無機物その境はどこにあるのだろう。 

☆目に見えるものに価値を置く社会と見えないものに価値を置くことができる社会の違いをぼくは思った。そしてたまらなく後者の思想に魅かれるのだった。     

☆ぼくは人間が究極的に知りたいことを考えた。1万光年の星のきらめきが問いかけてくる宇宙の深さ 人間が遠い昔から祈り続けてきた彼岸という世界、どんな未来へ向かい、何の目的を背負わされているのかという人間の存在の意味・・・・・そのひとつひとつがどこかでつながっている気がした。                        森と氷河と鯨より



ステージナンバー 9 活躍の舞台

これも9番 

人類愛 地球愛 宇宙愛 全体意識に貢献していく  人類を自己回帰 覚醒に導いていく舞台が彼のステージ 



インタビューの中でこんなふうに語っています。


「ぼくは生物学者でも人類学者でもなくて、ごく普通の人間がだれでももつような思いがあって、いってみればどうして人間はここにいるのか?そしてどういう方向に行こうとしているか、ということだと思うんです。人間という種の不思議さ。自分が生きていることの不思議さっていうのかな。そういう意識がいつもどこかにあるような気がします。そういう意味でアラスカを撮っているとなにかが見えてくる。そしてアラスカというところは、その何かが見えやすいのだという気がします。」



その他

Action numberは2番

人から好かれる彼はアラスカでは割と受け身で何かを頼まれたり誘われたりしていました。

そう言うことがぴったりのタイミングで仕事や写真集につながっていったようです。


Challengeナンバーは1-6 7

なにかを開拓し、それを芸術まで高めつつ、深く掘り下げていくことが彼のチャレンジ!7番は 内省 内的探究の数字です。アラスカでそれも原野に一人でいるのは内的探究の場所としては最適の場所です。チャレンジには成功しているといえるでしょう。


資質の中で目立っているのは

Intelligence 5 とても頭がよく知力の高い人 霊的成長を願う人

Maturity 7 集団意識をキャッチできる人でした。

Make mood 5 場の雰囲気を作る力 これがアラスカで生かされてたくさんの人の協力が得られたのでしょう。



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History


若年期 9

小学校のころからシートン動物記の<北極平原に野生動物を求めて>という本を繰り返し読み、チコとサメという映画に感動しました。 このころから 北海道にくまがいること そのくまを俯瞰で見たいと願っていました。


1964年 12才 2

         浅き川も深く渡れ   卒業の寄せ書き

小学生なのになんと奥の深い一言なのでしょう?

彼はもしかしたら、魂的には古老のような人だったのかな?

1968年 16才 5-6

高校入学の年 ヒッチハイクで異国にいくのを夢見てバイトに励みます。 5の冒険心好奇心!この年は彼の意識は外国へと向き周到に計画をたてていたのでしょう。



1969年 17歳 6-7

横浜港までヒッチハイクで行き移民船でアメリカに向かいます。約二か月間 アメリカからメキシコ、カナダまでいったようです。6の境界を超えるというのをまさに6でやっています。右脳で動く人だったのがわかります。


1970年 17才から18才 7-8

山登りを始める。

1971年 18才から198-9

慶応大学経済学部 入学 探検部に入部

夏に信州を旅した時、宿泊先のアラスカの絵地図をみて・・・ここにいくかもれないと感じます。

獏然と北へ憧れている時、神田の洋書店でシシュマレフ村の空撮の写真が載っているアラスカという本を見つけます。

異国に憧れてすごした10代の完結、9で本当に行きたい場所を見つけ次のステージへの足がかりとなりました。


1972年 19才から20才 9-10

大学1年生 留年 アラスカの7つの村に「仕事は何でもします。どこかの家においてもらえないでしょうか?」と手紙を書きます。

10はよりよい状況をもたらすための変化の年 彼は情熱にしたがって手紙をかいたのだと思います。 いよいよアラスカへの幕開けの一歩の年でした。


1973年  21から22才 10-11

シシュマレフ村から返信がきて、夏に3か月stayする。ニックネームはエスキモーボーイ。

11はイニシエーションイヤーなので、これで彼は運命的にアラスカへの切符を手にいれたのでしょう。


1974年  22才から23才 11-3

夏合宿の帰りに 山で友人がなくなる知らせを受ける。しばらく悩んだ結果アラスカに戻ることを決める。

11の終わりに友人の死を経験し、やりたいことをやっていこうと決心します。友人の死によって、3の年に視野が広がりました。 


1978年  25才から26才 6-7

シアトルの英語学校に入り9月 アラスカ大学野生生物管理学部に入学 このときは合格点に30点たりなく不合格なのを学部長に直談判して入学を許可してもらいました。

6で調整して、7で毎回彼が、次のステージに飛躍していくのはすごいな!と感じます。普通なら不合格だと、がっかりしてそのまま日本に帰るところですが、このことは行動力で物事を実現していく8のバイタリティー!

1979年から1981年  26才から29才 7-9

大学生活 勉強をつづけながらアラスカ各地を旅する。

自分のテーマを見出す。 最初のテーマはカリブーの季節移動を追う。でした。

アラスカの原野でのサバイバルする力 写真の技術 現地での人脈などのアラスカに根を下ろすための、基礎を完成させた時期 9で完了

1982年  29才から30才 10-11

大学中退 撮影に専念するために大学を中退する。

11で彼はまさしく人生も新しいフィールドへ!

アニマという自然誌にサーモンの写真が表紙に掲載される。マッキンレーとオーロラを初撮影  ここからは写真家 星野道夫としての活動がはじまります。


1983年  30才から31才  11-12

アサヒカメラ アラスカ特集号を星野道夫の写真で飾る。 12はコラボレーションナンバーなので日本でサポートしてくれる人が現れたのでしょう。

1985年  33才 5 形になったものがさらに外向きに活発化する時期

11月に最初の写真集 Grizzly  こどものころから夢見ていたひぐま!そのヒグマの写真集を完成 



ヒグマは怖いけれど、とても魅力的な存在 その写真集を完成させて感慨深かったことでしょう。アメリカでの出版 

☆もしクマがいなくなったら、確かに夜心配しないでキャンプをできるかもしれないけれども、それはつまらない、寂しい自然だなと思います。 

  魔法のことばより 



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1989年  37才  9

木村伊兵衛賞 写真家の新人に送られる賞を受賞 写真家としては新人ですが、普通の写真家としての活動ここで完結 フェアバンクスの森に素敵な土地を見つけ家を建てる計画 アラスカと日本を往復する旅人としての星野道夫も終了 


1990年  38才  10

フェアバンクスに家が完成 旅人としてではなく、10でアラスカの住人としての人生のはじまりです。

夢見ていたアラスカに住める!とてもワクワクした年だったことでしょう。写真とエッセイで、アラスカで感じたことを伝え始めます。

写真集 アラスカ 極北 命の地図、 アラスカ探検記 刊 


1991年   39才  11

アラスカ 風のような物語 刊 アラスカ定住日記 イニュニックの連載が始まります。9を伝えるという仕事がいよいよ本格的にはじまりました。


1993年  41才 13 破壊と創造 そして新生の年に結婚

お見合いで結婚 撮影にはいつも奥さんを連れていったようです。 過去生での清算?


1994年   42才  5 変化そして家庭と向き合う年

長男が誕生 1人から2人そして3人に!

きままで自由な一人暮らしから生活が激変しました。新しい家庭と父という自分に戸惑いつつ、しっかり向きあったのでしょう。


1995年  43才  6 調和の年

家庭画報で 「森と氷河と鯨と ワタリガラスの神話を求めて」 というタイトルで写真とエッセイの連載が始まる。子供もできて6の喜び活動する時期 自分の子供の成長を見て、命の不思議さをより感じていたでしょう。そしてとても幸せだったのだと思います。

アメリカ大陸 アラスカ アジアに伝わるワタリガラスの神話に興味を持ち・・・現地に伝わる話を収集するようになりました。


1996年  43才  6 献身 

8月8日 シベリア テレビの撮影で行ったカムチャッカ半島で ヒグマに襲われ死去

43才 6の年の終わりでした。6は別れをとおしての強さを問われる年 境界超えの年!その年に彼は三次元の境界を越え光の世界に旅だってしまいました。 



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彼が書いた童話 「ナヌークの贈り物」の中にこんな言葉があります。


われわれは、みな大地の一部      

おまえがいのちのために祈ったとき、

おまえはナヌークになり

ナヌークは人間になる。

いつの日か、わたしたちは

氷の世界で出会うだろう

そのとき、おまえがいのちを落としても

わたしがいのちを落としても

どちらでもよいのだ


星野道夫は 命は生まれ変わる。だから命をおとすのはどちらでもいいと思っていました。

潔くヒグマに命を差し出したのでしょう。交通事故でなくなるとか、病気でなくなるより・・彼らしい死に方でした。

何故なら・・星野道夫を食べたクマもまたいつか死んで大地に還り・・・それと一緒に、星野道夫もまた・・姿を変えて循環していくからです。


星野道夫はインスピレーションと8の持つ行動力でやりたいことを実現していきました。 限りない自然の豊かさをアラスカでかんじきり・・ナンバー8と91missionをしっかり果たした人生でした。 

彼はここにはもういませんが、彼は今でも作品をとおして・・私たちに9の意味を伝えてくれるのです。彼だけでなく、わたしたちも最後に感じたいのは1991なのかもしれないとレポートの最後に感じました。


最後に星野道夫の好きだった詩 今彼はこんな素敵な世界に住んでいるのかもしれません。  



大昔 

人と動物が共にこの世に住んでいた時

なりたいと思えば人は動物になれたし動物もひとになれた

だから時には人だったり、時には動物だったり、互いに区別はなかったのだ。

そしてみんながおなじことばをしゃべっていた。

その時のことばはみな魔法のことばで人の頭は不思議な力をもっていた。

ぐうせん口をついて出たことばがふしぎな結果をおこすこともあった

ことばは急に生命をもちだし

人が望んだことがほんとうにおこった

したいことをただ口にだしていえばよかった

なせそんなことができたのか、だれにも説明できなかった

世界はただそういうふうになっていたのだ


 金閣寿夫 「魔法のことば」より

 

                                 

Reported by Naomi Saito

Aeons Numerology Basic 7th class




by kej000 | 2015-03-06 22:40 | おもしろ数秘学

キルケゴール*実存主義の巨人・・数秘学で読み解くバイオグラフィー

アイオンズ数秘基礎科第5期生による、実存主義5人の思想家のひとり、
キルケゴールのレポートです。渾身のリーディングにより、彼の葛藤をありありと描く、壮大な世界をお楽しみください^^

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セーレン・オービエ・キルケゴール
(Søren Aabye Kierkegaard)
1813年5月5日~1855年11月11日 
デンマーク・コペンハーゲン生まれ

19世紀デンマークの哲学者、詩人、思想家で、実存主義の創始者、先駆けと言われています。
近代の合理主義的思想が行き詰まり、新しい現代思想の模索が始まった危機の時代を、その著作を通して表現した人物です。
キルケゴールは「自分がそのために生き、そのために死ぬことをができるような真実」を求めて、自己と戦い、社会と戦い、そして現代実存主義の創始者と仰がれるような優れた思想を遺しました。
また、当時影響力の強かったヘーゲル学派哲学、そして当時のデンマーク国教会に対する痛烈な批判者でもありました。
多くの思想家がそうであったようにキルケゴールもまた、その当時の人々からはほとんど正当な評価を受けることはありませんでした。

実存主義:
人間の実存を中心とする思想。合理主義、実証主義による客観的ないし観念的人間把握、近代科学技術による人間の自己喪失などを批判し、20世紀、特に第二次大戦後、文学・芸術を含む思想運動として盛り上がった。実存哲学。
『大辞林』

アルファベットにはない「ø」に対応する数字は「1」で計算。
http://www.asiact.org/archive/numerology/6names.asp 参照


鋭い知性と革新、そして自由 ─ 誕生数:5

キルケゴールは、ヘーゲル学派の哲学、形式主義のデンマーク国教会の痛烈な批判者であり、実存主義の先駆け、創始者とされた哲学者、思想家であり、詩人でもあり、10余年の間に多くの著作を書き上げました。
鋭い知性と感受性、マルチな才能、純粋な探求心を持ち合わせ、理論的でありまた分析力にも優れ、そして激しい情熱を持って行動したキルケゴールは、誕生数5の持つ長所を体現したような人生だったと言えます。
また5は「自分の宇宙をつくる」という意味を持つナンバーでもあります。キルケゴールは、抽象的な哲学ではなく、個別の、具体的な人間を哲学の対象とし、自分自身の問題として探求する主体的な思想家でした。近代社会の中で個性を失い神を見失った人々が虚無(ニヒル)の絶望の中に終わっていくことを指摘しつつ、人々の魂の内面に真の宗教性を持つことを願って活動しました。
一方で、キルケゴールは「神経質で批判的」という誕生数5の持つ短所、逆数である誕生数4の短所である「孤独で悲観的」という面も持ち合わせていました。

─ カルミックナンバー14
キルケゴールの誕生数5にはカルミックナンバーの14が含まれています。14は「真の自由への学び」のナンバーです。キルケゴールは、人々のそれぞれの本当の魂の自由を願い、自分自身の真実を持って人生を生きるための自己の真理の探求、個性と自由…人間としての真の幸福を求めること、それらをテーマとした著作として後世に残しました。まさに「真の自由とは何か」を探求した人生でした。

独創的な思想、実存主義の創始者 ─ 運命数:1

独創的で斬新、そして150年以上の時を経ても色褪せないの思想をもって、キルケゴールは実存主義の創始者と呼ばれますが、あらゆる分野において創始者となる人のナンバーである運命数1を持っています。そして彼の思想は後の哲学者、思想家たちにも多くの影響を与えました。

─ カルミックナンバー10
キルケゴールの運命数1にはカルミックナンバーの10が含まれています。カルミックナンバー10を持つ人は、「生まれには恵まれるが後に突然大きな変化が起こる」「前世のカルマを果たす」「人道的な目的を持つ、人に癒しを与える」と言われます。
キルケゴールの人生は、彼の父から大きな影響を受けています。キルケゴールの持つカルマとは、父のカルマであったと言えるかもしれません。キルケゴール自身は裕福な商人の家に生まれますが、後に彼が著作の中で「大地震」と呼ぶ、自分の出生と父の罪を知ることによって、心を打ち砕かれます。
裕福な毛織商人で熱心なクリスチャンであった父は、かつてユトランド半島に住む貧しい農民でした。父は子供の頃にその境遇をただ一度神に呪ったことと、結婚して間もない妻が肺炎で亡くなった直後、喪が明けぬうちに女中であったアンネ(キルケゴール兄弟の母)に対し暴力的に関係を持ったことを「罪」と考え、その代償としての「罰」がコペンハーゲンでビジネスに成功したことと、また自分の子供たちがキリストが張りつけにされた34歳までしか生きられないことと信じ込んでいました。(実際に7人兄弟のうち長兄のペーターと末っ子のキルケゴール以外は若くして34歳までに亡くなっています。)父の苦悩は後に息子の苦悩ともなり、キルケゴールの思想と生涯に決定的な影響を与えることとなりました。
波乱と苦悩に満ちた人生を歩んだキルケゴール自身の魂が救われたかどうかはわかりませんが、その著作と活動を通して多くの人々の心を救うことにより、カルマを果たし、人々に癒しを与えたといえるかもしれません。

Kierkegaardとはデンマーク語で「墓場、教会の庭、敷地」を意味する。実際にキルケゴールの父の家族は教会の敷地内に住んでいた。

キルケゴール自身も、幼い頃から身体が弱かったので、34歳までに自分が死ぬと信じていた。そして34歳になっても自分が死ななかったため出生届を確認したほどであった。

知的探求心 ─ ソウル数:7
キルケゴールは、分析、探求を楽しむ、多面的な思想家でした。7はより深い知的探求を現すナンバーです。
多数あるキルケゴールの著作については、多くのものがペンネームで書かれ、出版されています。著作の内容に応じてペンネームを変えたり、出版者(キルケゴール)が未知の筆者(キルケゴール)の原稿を見つけるという手法を取ったり、また、あるペンネームの自分の作品について別のペンネームでコメントすることもありました。
このように複雑な形式を用いたキルケゴールは、探求を楽しむだけでなく、自身の著作について妥協することもありませんでした。
また、ソウル数7の魂の目的は、「会得したものを世の中に広め、人々の心を豊かにすること」であるとされています。キルケゴール自身は生きている間に正当な評価を受けられずにいましたが、キルケゴールの死後、彼の思想は世の中に広がっていきました。そして後の哲学者や思想家たちに影響を与えただけではなく、多くの悩める人々の心を救うような著作を遺したことで、人々の心を豊かにしたといえるでしょう。

キルケゴールの別の顔 ─ 人格数:3
キルケゴールは自身のことを「私は生まれたときから老人であった」と嘆いたように、また著作にも表れているように、信仰心の厚い父親譲りの憂愁に満ちた性質の持ち主でした。しかしその反面、母親譲りの陽気さも持ち合わせていました。
外見的印象を現す人格数3を持つ人は、愛想がよく、チャーミングで、ユーモアのある遊び人風で、人を惹きつける人と言われます。
波乱と苦悩に満ちた人生だったにもかかわらず、キルケゴールは穏やかな日常生活を送っていました。午後になると決まって街に散歩に出かけ、街の人々と愛想よく言葉を交わし、カフェや劇場で過ごすことを楽しむような人物でした。
少年時代も、やさしく、いつもユーモラスで友達に愛されていたと言われています。そして大学に提出した人物証明書には「愛すべく好ましい若者」と書かれていました。
キルケゴールは機知に富んでいて話し上手であったので、友人たちからもてはやされていました。また生涯の恋人レギーネと初めて出会ったパーティーでも、キルケゴールは詩人としての才能と会話の妙で、レギーネら若い娘達を魅了しました。後に恋のライバルから彼女を奪おうと決意したとき、キルケゴールはレギーネの愛を得るために、持ち前の社交的な才能を駆使して、彼女と彼女の父の心をたちまちとらえて、あっという間に結婚を申し込み、数日後には承諾の返事をもらうほどでした。
また「大地震」後(前という説もある)は、内面では自殺を考えるほど絶望でいっぱいだったのに、外面的には華やかに遊び回っていて、莫大な借金を作るような生活を送っていました。
キルケゴールは、常に内面に苦悩を抱えていましたが、外面的には明るく快活な振る舞いで他人を喜ばせるような人物だったようです。


キルケゴールの人生 ─ 少年時代

若年期:5
キルケゴールは病弱で貧弱な子供で、それは生涯を通じても悩みの種となりました。彼はそのことについて「私の霊魂と肉体の不均衡」といっていますが、それは少年時代のキルケゴールにとって、精神上の才能を伸ばす点ではプラスであったといえるかもしれません。彼自身、幼い頃から自分が機敏であることを自覚していました。
キルケゴールの父は子供たちに、特に末っ子のキルケゴールに宗教的な敬虔さを大切に考える生活を厳しく求め、またキルケゴールも父の期待に応える努力をしてきました。
しかし、ただ沈鬱な父子の関係だったわけではなく、宗教的な関心だけではなく哲学にも深い関心を持っていた父が友人たちを招いて哲学についてよく論じ合っていたのを、そばで聞いているのが好きな少年でもありました。キルケゴールは父の弁証の才、対話の仕方から多くを学びました。
また父は外で遊ぶことを許しませんでしたが、家の中を歩きながらまるで街や森を見ているかの様に語り、子供たちを幻想の世界に連れて行きました。キルケゴールはこうした想像の楽しさを知ったので、宗教的で敬虔な生活の中においても、知的好奇心を十分に満たす子供時代を過ごしていたようです。
5は「好奇心」や「鋭い知性」の意味を持つナンバーですが、このような少年時代に素晴らしく多彩な才能を培っていったのだと思われます。
そして、キルケゴールは父の期待に応えるために神学部に進みます。


キルケゴールの人生 ─ 苦悩のはじまり

1830年(17歳):4 / 13
この年キルケゴールは、コペンハーゲン大学神学部に入学します。また、親衛隊に入隊するも身体が弱く除隊となります。
4はものごとが始まる年のナンバーで、新たなスタートとして大学に入学しますが、親衛隊を除隊になるという挫折も味わいます。キルケゴールにとっては波乱に富んだ精神的苦悩を味わう時期の始まりの年であったといえるかもしれません。

イヤーナンバーは2桁の数字を1桁になるまで計算している。/の後ろの数字は元の2桁の数字。

1834年(21歳):8 / 17
キルケゴールはこの年から日記をつけ始めます。(しかし最初の数年は神学のことについてほんの少し書いているだけであった)また、彼の興味はこの頃から神学よりも、文学や哲学など自由な教養を求めだします。多面的な興味に目覚めたキルケゴールは、学生達の討論クラブやカフェ、劇場に出入りするようになり、遊び歩く生活を始めました。そして晩年キルケゴールが戦う相手となるマルテンセン(後にデンマーク国教会の監督となる人物)と大学で出会います。
マルテンセンはキルケゴールのことを「非凡な才能をもつが詭弁的」、またキルケゴールはマルテンセンのことを「どんな主題に対しても底に達しない、生温い人物」とお互いを表していました。このころチューター(学生指導教官)と学生という関係であったふたりですが、権威主義であるマルテンセンと反権威主義であるキルケゴールは出会った時から反目しあっていました。
8は心にスピリチュアリティを持つ、そして力を多角的に放出するという意味を持つナンバーです。
この頃、キルケゴールは神学を学ぶことだけでは満たされない何かに気づき、真理と自由を探求することに目覚めたのかもしれません。そして多方面に広がる好奇心と一見遊んでいるだけの日々は、後の真理への到達への準備だったのかもしれません。
また8は死を現すナンバーでもありますが、この年に母アンネが亡くなっています。

キルケゴールは、大学で最良のチューターであると評判の高かった兄のペータではなく、マルテンセンを選んだ。


キルケゴールの人生 ─ 「大地震」とキルケゴールの苦悩

「そのとき大地震が、恐るべき変革が起こって、突然私は、あらゆる現象を全く新しい法則に従って解釈しなければならなくされた。」
この時期のキルケゴールは自身の著作の中で「大地震」と呼ぶ出来事が起こり、また自堕落な放蕩生活を送っていました。その中でキルケゴールは彼にとって核心となる思想にたどり着きます。

1835年(22歳):9 / 18
キルケゴールは色々なことがらへの関心と自由な生活への憧れから、しだいに神学から離れていき、文学、哲学の方向へ進みだします。そのようなキルケゴールの変化は家族との関係を悪化させていく原因ともなりました。真面目な神学者として精進を重ねていく長兄ペーターは、神学から離れていくキルケゴールを心配しつつも、自身よりも父の愛と期待を多く受けている弟に対して不満を感じていました。また父は1832年から1834年にかけて、妻と3人の子供が次々に亡くなっていく悲しみと、神学から離れいくキルケゴールと、兄弟の不仲とによって深い憂愁にとらわれていました。このような重苦しい空気を和らげる存在であった母が亡くなり、比較的安らかであったキルケゴールの家庭生活は暗く重いものに一変しました。そして父や兄からの精神的独立を求める内面的葛藤に苦しみます。その苦悩が激しければ激しいほど、キルケゴールは外面的には華やかな社交生活に足を向けていきました。
そのような状況の中、キルケゴールはこの年の6月から8月に北シェランに旅行に行きます。この旅行は、家庭内の重苦しい空気を忘れさせ、大学卒業の神学試験に備えさせるために、父が提案したものでした。
この旅行中にキルケゴールは、「客観的な真理に何の意味があるのか?自分にとっての真理を発見し、それのために生き、死ぬことを願うような生活根拠(理想)を発見することが必要である。」と、後の彼の思想の核心となるような思想に到達します。主体的真理を求めて生きようとする確固たる決意に到達したキルケゴールは、父からの精神的独立を目指し、彼と戦う覚悟をもって家に戻ります。
9は「完結」「変容」「本質を見抜く」「真理を得る」ことを現すナンバーです。まさに真理への糸口を得たキルケゴールでしたが、9には「複雑な2面性」という意味も持ちます。
戦う覚悟をもって家に戻ったキルケゴールでしたが、しかし憂鬱に沈みこんだ父を見て、戦う決意を示す気力を失ってしまいます。
キルケゴールにとって真理を見出した年でもありましたが、9の短所である「ブレやすさ」が現れた年でもあって、彼はこの後「破滅への道」と名付けた放蕩生活に落ちていきます。
また、「大地震」については諸説ありますが、一説ではこの年に父の罪と罰を知り、それが放蕩生活の原因であるとされています。
尊敬し、愛していた父が罪人であること、そしてその罪を自分自身も受け継いでいることにキルケゴールは苦悩します。父は「子供だけは本当の信仰の祝福を得てほしい」という願いから、敬虔なキリスト教徒としての生活を求めましたが、キルケゴールは父が押し付けるキリスト教をもう単純に信じられなくなっていました。この時キリスト教は、キルケゴールにとって愛と救いの宗教ではなく、父同様に苦悩と刑罰の宗教となりました。

「大地震」についてはキルケゴール自身による具体的な記述がないため、詳細については不明であるが、自身の出生と父の罪のことだとされている。また時期についても不明。そのため1835年の「大地震」をきっかけに堕落した生活に落ちていったという説と、1838年の「大地震」をきっかけに堕落した生活から立ち直ったという説がある。いずれにしてもキルケゴールにとって苦悩の時期であったことに違いない。
ここでは「大地震」が先に起こったと仮定してリーディングしている。

1836年(23歳):1 / 19 、1837年(24歳):2 / 20
キルケゴールは神学試験の準備を放棄し、自らが「破滅への道」と名付けた、内面には死への不安と罪の絶望を抱えながら、外面的には様々な友人たちと飲み歩き莫大な借金を作るという放蕩生活を送っていました。華やかで多彩な社交生活は多くの人生経験を得る機会でもありましたが、キルケゴールの心を癒すものではありませんでした。このような華やかな生活の奥底にキルケゴールが見ていたものは、退屈で無意義な人生であり、虚無でした。そしてこの頃、キルケゴールは自殺することが最大の救いであるとまで考えていました。
華やかだけれども虚しく絶望的な日々を送る中で、1837年にキルケゴールは生涯の恋人となるレギーネ・オルセンと出会いました。しかしこの時はタイミングが合わず、また彼女には他に結婚を前提とした相手がいました。
この自堕落な放蕩生活は1のナンバーが持つ短所「不安症」「悪癖」、2のナンバーが持つ短所「過敏」「流される」「依存」など、悪い面が極端に出た時期だったようです。

1838年(25歳):3 / 21
1838年に入るとキルケゴールの日記の記述には、回復の兆しが見え始めます。恩師であるポール・マルティン・メーラーの助言により、キルケゴールは徐々に立ち直っていったとされています。3月にメーラーは亡くなりますが、死の床からも気遣ってくれたことの感謝の念を込めて、後にキルケゴールはこの時期の自分を分析した著書『不安の概念』をメーラーに捧げました。キルケゴールはキリスト教に、そして父の元に帰ることを願いました。
こうしてついにキルケゴールは父との和解を果たし、その後8月に父は亡くなります。
そしてキルケゴールは父との約束を果たすため、神学試験の準備に入ります。彼にとって神学の試験勉強は最大の苦痛であったと思われますが、父への愛によってそれを乗り越えたと言われています。
3は「新しい誕生」そして「さらに発展していく」という意味を持つナンバーですが、キルケゴールは、苦悩の日々を乗り越え、父と和解することによって大きく成長しました。

メーラはコペンハーゲン大学の教授で、詩人であり思想家。

キルケゴールの人生 ─ レギーネへの愛

1840年(27歳):5 / 14
この年キルケゴールは、神学試験に優等で合格し、王立伝導学校へ入学します。キルケゴールは試験が終わるとすぐに、父への愛とレギーネへの想いを胸に、父の故郷であるユトランドへ旅行に出かけます。
そしてこの旅行から帰ったキルケゴールは、積極的にレギーネに接近し、彼女の愛を得ようと決意します。キルケゴールは8月頃からオルセン家の客として出入りするようになりますが、9月に結婚を申し込み、数日後には婚約の返事をもらいます。
5は環境が変動し、かたちになったものが活発化していくことを現す数字ですが、伝導学校への進学という環境の変化と、長年想い続けてきたレギーネへの愛が成就した年でした。
しかし、念願かなってレギーネと婚約をはたしたキルケゴールですが、外面的には彼女の愛を得たことを喜んでいたものの、内面では婚約した直後から、自分はレギーネにふさわしくないと思い悩み、婚約を後悔していました。
5は「破壊」を現すナンバーでもあり、幸せを手にしたはずのキルケゴールですが、その憂愁な性格から、幸せとは逆の方向に向かって進んでいきます。

1841年(28歳):6 / 15
6は「出会いと別れ」のナンバーですが、キルケゴールはとうとうレギーネに指輪を送り返して婚約を解消します。キルケゴールは彼女を愛すれば愛するほど、自分は彼女にふさわしくない人間であり、彼女をどんなに深く愛していても神の愛を信じていない自分は彼女と真に愛し合えないと考え、そのことにより彼女を傷つけないために、別れを選びます。6は無条件の愛を現すナンバーでもありますが、キルケゴールは一方的でかなり屈折したかたちではありますが、無条件の愛の証として別れを選び、レギーネへの愛を貫くことを決心しました。

1841年は論文が学位として認められたり、ベルリンに旅行(ベルリン大学でシェリングの講義を聴く)したりした年。著作活動に精力的に取り組んでいた。ちなみにベルリン旅行は1年半の予定だったが4ヶ月で引きあげてきた。

1843年(30歳):8 / 17 、1844年(31歳):9 / 18
キルケゴールは神への愛に目覚めレギーネへの愛を完成させるべく、著作活動に没頭します。『あれかーこれか』『反復』『哲学的断片』などの名作を次々に著作し、それらを「ただ一人の読者」レギーネに捧げます。キルケゴールはレギーネがこれらの著作を通して、婚約破棄のの真意、彼女への愛の深さを理解してくれることを願っていました。
後に彼は日記に「私の死後、著作は彼女と亡き父捧げられるべきだという私の意志は変わらない。」と記しています。
9は「完成」の意味を持つナンバーですが、キルケゴールはその苦悩や愛を珠玉の著作に昇華させ、永遠に遺すこととなります。
その後もキルケゴールは、レギーネを愛し続け、生涯その愛を貫き通しました。
そして遺言には「私の以前の婚約者であったレギーネが、私の遺しうるわずかなものの全てを相続することは、もとより私の意志である。」と書き遺しました。

レギーネは遺産の相続については断ったが、遺稿の引き取りには応じた。そして親友であったキルケゴールの姪とともにこれらを世に送り出した。


キルケゴールの人生 ─ 戦いのはじまり

1845年(32歳):1 / 19
キルケゴールはこれまでの数年の間に多くの著作を書き下ろしました。そして当時のコペンハーゲンにおける優れた文学者、思想家として名声に輝いていたキルケゴールは、すでにこれまでの著作で自身の書きたいことはあますことなく書きつくしてきたと感じていたので、そのとき書き進めていた『哲学的断片のあとがき』でヘーゲル批判を書き上げれば、もう後は書くべきことは何もないと考えていました。そしてこれを出版した後は筆を置き、田舎の教会で残りわずかの人生(34歳で死ぬと信じていたので)を、神に仕えるクリスチャンとして静かに過ごすつもりでいました。
しかしこの年、キルケゴールに対する悪意に満ちた批判文が雑誌にされたことが口火となり、有力な風刺新聞「コルサール」にキルケゴールを嘲笑する漫画と彼を罵る記事が数ヶ月に渡り連載され、そしてキルケゴールは人々の物笑いの種に仕立て上げられてしまいます。
このような卑劣なマスコミの暴力にあったキルケゴールですが、このとき誰も彼を助けようとしませんでした。
この「コルサール事件」でマスコミと大衆の虚偽と無責任さを痛感したキルケゴールの闘争の対象は、これまでの美的、感性的、思弁的なものから、大衆社会(後に宗教的なもの)へと転じ、著作者としての新しい使命に生きることを決意します。
1は「始まり」「新生」の意味を持つナンバーですが、キルケゴールは著作者としてまた新たなスタートを切ることとなります。

この時代のデンマークは、デンマーク文化の黄金時代であり、アンデルセンをはじめ、多くの優れた作家が誕生した時代であった。多くの学術団体や文化クラブが設立され、また言論機関の発達も著しく、新聞や雑誌も無数に発行された。


1847年(34歳):3 / 21 、1848年(35歳):4 / 22 、1849年(36歳):5 / 23
3は「発展」「開花」の意味を持つナンバーですが、この年、キルケゴールは自分が死ぬと思っていた34歳になります。これから先は予期していなかった恵みの年月であるので、これを神に捧げて生きようと考えました。
しかし34歳で死ぬと信じていたキルケゴールは、父の遺産の多くをこれまでの著作の自費出版のために使ってしまっていました。そして経済的困窮に常に頭を悩ますこととなり、決意とは裏腹に活動面では発展の年とはなりませんでした。
イヤーナンバー4の年であった1848年は、ヨーロッパ各地で起こった政治的動乱によりインフレが起こり、また兄の借金返済のために、キルケゴールは屋敷や著作の版権を売ってほとんどの財産を失ってしまいました。世の中の大きな変化と経済的困窮の中、キルケゴールは著作活動に膨大なエネルギーを傾け、宗教的著作『死に至る病』など3作を書き上げます。
その一方で、経済的安定を求め官職につく希望を捨てきれなかったキルケゴールは、デンマーク国教会の怒りを買うことを恐れ、これらを出版する決断ができませんでした。
4の年はそれまでの数年の結果が出る年、そして次のものごとの準備を始める年ですが、困難な状況に置かれているために、後に名著と呼ばれる著作の出版を見送りました。結果が出た年とは言えませんが、今後の活動のための準備の年となりました。
イヤーナンバー5の年であった1849年は、「変化」と「葛藤」の年でした。キルケゴールはこの年に『死に至る病』を出版しますが、生活への不安から行動に起こせない自分の弱さに苦悩しました。

デンマークでは1660年より200年近く維持されてきた絶対王政が崩壊し、1848年に自由憲法が制定された。

キルケゴールの人生 ─ 殉教者として

「信仰とは、自己が自己自身であり、また自己自身であろうと欲するにあたって、神のうちに透明な基礎をおいている、ということである。」
キルケゴールにとって究極的な真理とは、キリスト教的真理であり、「自己が真の自己となる」とは、彼にとっては「自己が真のクリスチャンとなる」ということと同義でした。キルケゴールは、真のクリスチャンになるためには「キリスト教が何であるか」を形式的に客観的に理解することではなく「いかにしてクリスチャンになるか」を、自分自身の生き方に即して主体的に問い、そして実際にクリスチャンとして生きることに目覚めなければならないと考えました。

1853年(40歳):9 / 18
1852年までのキルケゴールの日記には、自己の内面の信仰を貫くために、無責任で実体のない「大衆社会」や形式的で堕落した国教会と戦おうと決意するものの、生活の不安から行動することができず、殉教者としての使命を感じながらも殉教者となれない自己の弱さを苦悩する記述がみられます。
しかし1853年から、自分の使命が国教会と戦うことであると確信を強めていきます。
この頃の日記には「私は著作者として私の良心に、あることを持っている。私が言わなければならないことがはっきりとある。そして私はそれを言わずには死ぬにも死ねないほどに、そのことを自分の良心にかけて持っているのだ。私が死んでこの世を去る瞬間に、そしてこことは違う場所に立っているこの瞬間に、次の質問が私に課せられるだろう。『お前は使命を全く明確に行ったか?』そしてもし私がそれをやっていなかったら。そのときはどうなるだろうか!」と書かれています。
9は「完結」「完成」「真理」の意味を持つナンバーですが、これまでの葛藤の日々を乗り越え自分の使命を確信し、重大な決断をした年となりました。

当時のデンマーク国教会は国家と表裏一体で、絶大な権力を持っていた。

1854年(41歳):1 / 19
キルケゴールがこれまで国教会批判を躊躇していた理由のひとつとして、国教会の監督にミュンスターが在位していたことがあります。ミュンスター監督はキルケゴールの父が尊敬した父の導師であり、自身も彼から堅信礼を受けたので、さすがにキルケゴールはミュンスター監督を直接批判することができませんでした。しかしこの年の1月、ミュンスター監督が亡くなり、その後任として4月にマルテンセンが監督に就任しました。これを機にキルケゴールは行動を開始します。2月にマルテンセンがミュンスターの追悼演説を行いますが、その演説内容に対する反論文を書き上げます。
しかし書き上げたもののこの論文が個人攻撃の中傷記事だと誤解されることを恐れたキルケゴールは、マルテンセンが監督に正式に就任するのを待ち、また、ミュンスター前監督追悼のための一般寄付が完了するのを配慮して、そして10ヶ月延期の末、12月に日刊新聞『祖国』紙上で発表しました。こうしてキルケゴールの国教会批判、マルテンセンとの論戦が開始されました。
1は「決断」「はじまり」の意味を持つナンバーですが、真理のために戦う最後の決断をし、そして戦いを始める年となりました。

1855年(42歳):2 / 20
1854年12月から1855年2月までに、日刊新聞『祖国』に20本の論文を掲載し、マルテンセンと国教会を糾弾し続けます。
そして5月からは予約販売の小冊子『瞬間』を自ら発行して、毎号7、8本の短めの論文を掲載します。『瞬間』は2週間ごとに出版されましたが、発行部数が『祖国」を超えるようになりました。
敬虔で誠実なクリスチャンとして知られていたキルケゴールのこれらの行動は、多くの人々に狂気の沙汰だと思われていました。しかし一方でこの小冊子『瞬間』への反響は大きく、国教会反対派、自由思想家たちに迎え入れられただけではなく、教会内部の人々や牧師たちにも歓迎されました。『瞬間』は、様々な人に大きな影響を与え、それぞれに行動を促しました。ある人々は自身が教会人でなかったことを知り、ある人々は一層よいプロテスタントになるように鼓舞され、ある人々はカトリックの方向へ向かうなど、キルケゴールの目指していた「単独者」としてのそれぞれの幸せの探求へと向かっていきました。
キルケゴールは『瞬間』第10号の印刷準備中に意識を失い倒れます。その後10月2日に再び散歩中に意識を失い路上に倒れ、そして40日後の11月11日にこの世を去りました。
この年のイヤーナンバーは2で、「芽吹き」「新しい世界が生まれる」の意味を持つナンバーです。
道半ばで孤独に亡くなったキルケゴールですが、彼の求め続けた真理は彼の著作を通じて、人々を目覚めさせ、それぞれの真理の探求へと誘いました。

キルケゴールの誕生数5は、「家族」を現すナンバーでもあります。彼ほど家族、特に父の決定的に影響を受けた思想家は少ないであろうと言われますが、キルケゴールの類い稀な才能を育んだのも家族であり、彼を苦悩させたのも家族であり、彼が深く愛したのも家族でした。キルケゴールの人生、そして彼の根底には常に「家族」がありました。
また、キルケゴールの、人生での可能性や実現することを示す実現数は6で、「本質の理解」や「精神性の向上のために真の救済を行う」という意味を持つナンバーです。活躍の場を示すステージ数は運命数と同じカルミックナンバー10を含む1で、「独創性」「創始者」「絶対性」「芸術」の意味を持ち、そして試練を示す挑戦数は2で、調和をはかることが求められるナンバーです。
美しい文体で鮮やかに真理を著わしたキルケゴールの人生を読み解いていくと、コアナンバーをはじめ、彼は自身が授かったナンバーを体現するような人生を歩み、天命を全うしたように思えます。

キルケゴールは150年以上も前に、人々が合理的な社会の中で個性を失い孤独と不安で絶望していくという現代社会にも通ずる問題を鋭く見抜き、警鐘を鳴らしました。そしてその苦悩を乗り越える術を、自分の体験を元としてのみ語りました。
私たちはそれぞれ個々が1つの自由な独立した人格であり、そして真理はそれぞれ個々の内側にある ─ キルケゴールの遺した思想は、世紀を超えてもなお色褪せずにいます。

参考文献:『キルケゴール』工藤綏夫(清水書院)



Reported by Yuri.M
Aeons Numerology 5th class





by kej000 | 2015-03-06 22:19 | おもしろ数秘学

アンジェリーナ・ジョリー 「光と影」*数秘学で読み解く彼女の人生

圧倒的な美しさで世界を魅了する、アンジェリーナ・ジョリー。

アイオンズ数秘基礎クラス第6期生によります、華やかな世界に棲む彼女の苦悩の人生に迫ります^^



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Angelina Jolie 

Angelina Jolie Voight

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Personality


誕生数(Birth path number14-5番

14番は衝動的な欲求を克服すること、家族との協調、余儀ない変化や危険思想などの体験によって、真の建設的な自由とは何かを学ぶナンバーです。

まさに彼女は家族との葛藤やいじめから、自傷行為やドラッグ、BFとのSM行為、バイセクシャルなど衝動的な欲求を繰り返してきました。

5番の人は、直感的な即断力と視覚エネルギーに優れ、自分の心から湧き出す視的イマジネーションに気づき意味を見いだせるようになると、素晴らしい人生の方向性が見えてきます。自立と依存の中で揺れ動きますが、自分を律することで本当の内面の自由と独立を果たします。

彼女の人生は映画の役作りのためUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の慈善旅行に2度参加してから大きく変わります。その後カンボジアから養子を迎え、彼女は慈善活動へ大きく力を注ぐことになります。


運命数(Destiny number6番

6番は母性的な愛情と、父性的な責任感をもって、人々のため世の中に奉仕する使命をもっています。

人の成長を手助けするのに携わるナンバーであり、現在彼女は夫婦で基金を立ち上げ、実子以外にも3人の養子を育てています。

被災地を実際に訪れ、これまでに多額の寄付をしてきたことも有名です。

ただこのナンバーは時に献身が自己犠牲を超えて隷属状態に陥る場合があるので、その境界線を学ぶ必要があります。


ソウル数(Soul number6番

運命数に続き魂の欲求でもあるソウル数も6番です。

このナンバーの人の魂は、人を慈しみ守りたいと欲求しています。

自分を犠牲にしてでも人に尽くしたいという欲求は、時として独りよがりとなり相手の領域を侵し、束縛へとつながることに注意が必要です。

彼女は慈善活動に力を入れるだけでなく、養子・実子ともに愛情を注ぎ家族の時間を大切にしています。


人格数(Personal number9番

このナンバーの人が外に見せている顔は、懐の深い理解者の顔です。

どんなタイプの人にも朗らかで公平な態度をとり、共感することができます。時と場合によって、人との接し方や自分らしさの表現を、自然に切り替えることができる人です。

近年の彼女は9番らしい顔を世間に見せているように感じます。


実現数(Realization number11-2番

11番は12乗のパワーを持った、素早い決断と直観力でリーダーシップを発揮することができるパワフルなナンバーです。

芸術性の高いナンバーでもあるので、彼女の女優としての優位性を生かして、世の中に働きかけることは成功への近道となりそうです。


ステージナンバー(Stage number7番

活躍の舞台は7番です。

マニアックに探求するナンバーと言えます。彼女は女優という仕事だけでなく監督業にも興味を持ち、映画撮影に力を注ごうとしているところです。映画の題材を探求し、深く掘り下げていくことが大切だといえます。今後の彼女の作品に期待したいです。


Nature number 9番

人格数と同じ9番です。

奉仕、博愛が彼女を語るキーワードになりそうです。


Action number 5番

誕生数とおなじ5番。彼女の行動は自由、そして新しい風を起こす人となりそうです。

まず行動を起こし、あちらこちらに頭をぶつけながらも成長してきた人と言えます。


Challenge number 20-2番

0のつくナンバーは霊性が高く、また2番は協調をはかり奉仕するナンバーです。イメージの世界に身を置き、人道的な目的を現実社会で実現することが彼女の目標となります。

現在、Challenge numberは人格数と同じ9番。彼女の慈善活動は世界に周知され、乳がん予防の啓蒙活動にも大きく貢献しています。彼女の活動は世の中に認められた今、再来年からくる次のステージに向かっていると思われます。

ちなみに再来年からのnumber7番です。彼女は更なる探求を深めて活動していくことが求められています。


チャートより

Growth 6番

育てる力に優れています。愛をもって理解し、成長を助けることができる人です。


Maturity 1番

集団意識をひっぱることができる人です。人の先頭に立って慈善活動をする彼女は天職と言えます。




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History


~若年期 youth number 6番~

彼女の若年期は家族の問題や、心身の調和の問題に揺れ動きました。

幼少期は両親の離婚といった家族の問題に直面しました。また学生時代にはいじめにもあい心身のバランスを崩し、自傷行為を繰り返すことになります。傷が残るほどのSM行為やドラッグにも手をだし、人間関係と愛情に揺れた時期を過ごしてきました。


3才 (Year number 26-8)

8番は現実問題がでてくるナンバーです。

また26番ということから受け身で家族の問題がでてきました。

すでに俳優の父とは別居していましたが、この年両親が正式に離婚しました。

その後彼女は父と長い間確執ができることになります。


13才 (Year number 27-9)

学校でのいじめなどで自傷行為を繰り返します。この自傷行為は20代前半まで続きます。

自分への信頼の欠如から依存を繰り返すという、2番と7番の悪いところがでた年でもあります。


14才 (Year number 28-10-1)

演劇学校を辞めます。そしてファッションモデルを始めます。

その頃ボーイフレンドと同棲を始めますが、傷が残るほどのSM行為をしていたことをのちに告白しています。

10番は流れが変わる番号です。ファッションモデルを始め、ミュージックビデオにもでるようになり、後の女優への流れを作ったといえます。

しかし依存体質はかわらず、そのまま何年も悩まされることとなります。


20才 (Year number 7)

初主演の映画で最初の夫となる俳優と共演し、結婚しました。

7番は何かを始めるにはいいナンバーですが、果たして彼女の結婚生活はどうだったのでしょうか...


23才 (Year number 10-1)

10番は流れががらりと変わるナンバーです。

最初の夫と正式に離婚します。

そしてバイセクシャルな彼女は、この年日系人女性モデルと交際をします。

私生活では離婚し新しいスタートを切りました。

仕事ではゴールデングローブ賞のテレビ映画部門・主演女優賞を受賞し、女優として世間に広く知られるようになります。


24才 (Year number 11)

11番はイニシエーションイヤーと呼ばれています。次のステップへ大きく飛躍していく年です。

この年彼女は映画『17歳のカルテ』で、助演女優賞をゴールデングローブ賞とアカデミー賞とダブル受賞します。また私生活では共演俳優と2度目の結婚をします。


26才 (Year number 4)

この年は彼女にとって大きな人生の転機となりました。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の慈善活動に参加し、UNHCR親善大使に任命されます。

4番は何かを始めるのに大変良いイヤーナンバーです。

慈善活動に参加した彼女の人生はここから大きく変わっていきます。

まだ育児経験のない彼女ですが、カンボジアからマドックスくんを養子として迎えるという大きな決断をしました。


27才 (Year number 5)

5番は家族の問題がでやすいナンバーです。そして人生の方向転換をする時期です。

この年彼女は2度目の夫と離婚します。

そして長年の父との確執から、本名Angelina Jolie VoightからVoight をとってAngelina Jolieに改名することを裁判所に申請し認められました。


28才 (Year number 7)

この年、現在のパートナーのブラットピットと共演し交際をスタートさせます。

7番は何かを始めるのによいとされるナンバーです。

ただし当時は否定していましたが、交際をスタートさせたのはブラピがまだ前の妻と正式に離婚する前だったようです。


30才 (Year number 8)

8番は精力的に活躍するナンバーです。

この年彼女はパートナーのブラピと一緒に、パキスタンで慈善活動に参加します。

またエチオピアからエイズ孤児だったザハラちゃんを、二人目の養子として迎えました。

二人の養子はブラピも里親となり、ジョリー=ピットと改名します。

そしてこの年ブラピとの間にできた実娘シャイロをアフリカで出産します。

彼女にとって大変実りのある、充実した年だったのではないでしょうか。


31才 (Year number 9)

9番は完結し新しい流れへ向かうナンバーです。

彼女とブラピの慈善活動は、この年『ジョリーピット基金』を立ち上げ大きな形となりました。

そして家族の別れと新しい家族の出会いがありました。

彼女の実母が他界し、ベトナムから孤児のパックスくんを養子として迎えたのです。


~壮年期 maturity number 4番~

現実的な問題に向かい合い、基盤をしっかり作るナンバーです。

若年期は山あり谷ありのジェットコースター人生だった彼女は、30代になり地に足をつけ

精力的に慈善活動に取り組み、また同時に家庭人としてもよき母となります。


32才 (Year number 10)

10番は新しい流れに乗るための変化のナンバーです。

余分なものを手放しコミュニケーションを大切にすることで、次の流れの準備をする時です。

この年彼女は、長年確執のあった実父と和解します。


33才 (Year number 11)

11番は「真の理想に向かって目標を掲げ進む」イニシエーションイヤーです。

ブラットピットとの間の双子ノックス&ヴィヴィアンを出産し、実子3人・養子3人の大家族になります。

そして養子ザハラちゃんの母国エチオピアに、HIVエイズクリニックを設立するために寄付をします。

「家族」「慈善活動」をキーワードに、彼女は明確な目標をかかげ突き進んでゆきます。


34才 (Year number 12)

12番は多忙に活躍する年です。

ハイチ地震被災地を訪問し、寄付をしました。


35才 (Year number 4)

4番は現実的な問題を堅実に対処するナンバーです。

洪水被災のパキスタンを訪問し、寄付活動をします。


37才 (Year number 6)

この年彼女は大きな決断をします。

6番は病気と調和をはかるナンバーでもあります。

彼女は母を乳がんでなくしており、自身も遺伝子検査で乳がんを発症する確率が8割あることが判明し、家族のため乳がん予防として乳房切断手術を決断します。

この決断は世間に大きな衝撃を与えました。


38才 (Year number 7)

7番はステップアップできる年です。コンセプトや計画をより深める時期です。

はじめて悪役にも挑戦し、女優としての幅を広げ、実子との共演も果たしました。

また女優としてだけでなく、映画製作への意欲も語っています。


39才 (Year number 8)現在

8番はパワフルに活躍するナンバーです。

今年彼女はどんな活躍を私たちに見せてくれるのか楽しみです。



Reported by kaori

Aeons Numerology 6th class @ Tokyo


by kej000 | 2015-03-06 22:07 | おもしろ数秘学