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本当の自分との出会いに♡ いわさきちひろ

本当の自分との出会いに * いわさきちひろ


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いわさきちひろ

本名 松本 知弘 
   Chihiro Iwasaki
生年月日 1918年12月15日

いわさきちひろさんは 子どもの水彩画に代表される日本の画家であり 
「子どもの幸せと平和」をテーマとした絵本作家です


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■誕生数 ♯19-10-1■ 生まれ持った資質・性格・個性と生きる姿勢や才能・その人の潜在能力

カルミックナンバーである10-1は 一般的に恵まれた環境で育つがその与えられた環境や物が本当にあなたらしく生きるものなのか問われてくる本当の自分はどうしたいのか生まれた環境と言うのは潜在意識にインプットされているのでインプットされているものを乗り越えて
自分がどうしたいのと言うところに行くのが10番である人生の大きな目的の中に自分の価値基準や環境ではない本当の自分の価値基準を見いだすのが大きなテーマになってくる

人生のある時期に全く別の道へ変化する場合が多く見られる前世でやり残したカルマや目的を今生で果たすためのナンバーで人道的な目的や人に癒しを与える方向へ向かうことが多く見られる ディスティニー8で社会で仕事をするまで専門領域を極め精神性を極めていくことです

19 まず生まれて与えられた環境や価値が本当に幸せなのかと問われるのが10-1そしてそこから私ってもっと違う価値なんだと言う方向へ行くのが19
19は1から9に移行するナンバー 9は「月」月は母とかも表す家族とか身内とかに親族も含めてカルミックメイトでセットになってきている自立に関しての学ぶ対象がセットで自分の身近な環境に持ってきている
その中で本当の権力本当の力とは何か本当の自立って何とずっと模索している本当の自分になっていき自信と威厳を現実社会で確立すると言うのが19は最終的には1人と言う意識ではなくみんなのおかげで自分がいるのだというところまで立ち返るということもあるおそらく声させてくれないような自我がある
家計から来ている長くかかるかもしれないが超えさせてくれない自我を振り切って自立を目指すナンバーです

ちひろさんの環境は正しく当時としては非常に恵まれた家庭環境であったようです
何でもできる方で絵の才能があり書をやっても先生の代役ができるほどの力を持っていて運動神経も優れ何でもこなす人のようでした

美術学校に進むことを望んだが両親の反対で洋裁学校へ入学 その後20歳のときに3人姉妹の長女だったちひろは両親の勧めで婿養子を迎え望まぬ縁で形だけの結婚であったが夫の自殺で終わりを迎えたつらく苦しい思いを持っての再出発だったのでしょう与えられたそうした環境の中でもディスティニー8番のバイタリティーとパワフルさで再び絵と書を始め自立を目指しました
1945年疎開先で戦争を迎えその時ちひろは初めて戦争の実態を知り自分の無知を痛感したようです 両親に相談することもなくこのことが共産党に入党したり後にちひろは「子どもの幸せと平和」を願い原爆やベトナム戦争の中で傷つき死んでいった子供たちに心を寄せていったのでしょうまた当時挿絵画家は美術作品として認められずその時ちひろは持ち前の行動力を発揮し絵本作家の著作権を守るための活動もしていました
ちひろ亡き後夫の義明と息子の猛はちひろの足跡を残すためにいわさきちひろ絵本美術館を開館しましたがちひろ美術館はちひろの作品の収集展示という個人美術館の枠を超え(日本の美術の一ジャンルとして正当に評価し絵本原画の散逸を防いで後世に残していくこと) に目的を広げて活動を展開しました夫と息子と多くの作家らの協力で大きな社会貢献に結びついたと思いますまさに19-10-1の人生だったと思いました

■Destiny Number ■運命数 80-8
仕事表面的意識 社会へ打ち出す能力

社会に出て現実に勉強してやってみる事項を拡大するために現実と向き合って忍耐でコツコツ社会の学びをする地道な努力を続け常に達成向かうことを目指す1人ではなく組織の中で大勢と強調してやっていくことで自己信頼を得て8の学びが大きく与えられる0のつくナンバーは0的な素質を豊かに発揮する能力に恵まれています直観力や洞察力が目的成就への有効な手段となります
ちひろさんはどんな状況の時でも学び続ける努力を続けた人であった

■Soul Number ■ソウル数 8

内なる欲求にはパワフルさと行動力があり情熱的で自信と大胆さ
またロマンチストで思慮深さも併せ持っていただろうと思われます
バイタリティーがあり自信を持って積極的に進んでいく夫の善明が衆議院選に初当選した時はちひろは画家 1時の母、老親の世話大所帯の主婦と並行して国会議員の妻として忙しい日々をこなしていたパワフルでバイタリティーある日々だったでしょう

■Personality Number■ 人格数 9
ひとから見られる自分

物腰柔らかく落ち着いた感じ人当たりが良く幅広い人と交流できる人
面倒見の良さどんなタイプの人にも自然に接することができる人

■Realization Number ■ 実現可能数 9
今回の人生での可能性や実現性

人を感化 強化させ得る才能を生かし豊かな才能発揮し愛と理解力を持って人類愛を実践していける人
慈悲の心を持ち人々に自分の経験から得た叡智を伝え社会貢献すること
いらないものは手放して自分も人も許すことで全てを受け入れる真の強さ、エネルギーを得るまた自分の生き方を世の中の人や未来を担う子供たちに見せることにより後に続く人たちの道標となり人の心に寄り添うことを目指しています穏やかに人類愛を実践することがミッションです

■Stage ■活躍する舞台 9

1から8の要素を持っている人なので
どんな人とでも交流できる冷静な人です
指導者 慈悲深く落ち着いているそっといるだけでエネルギーが伝わってくるような人なので心の分野や芸術など

■Challenge■ 20-2

人を思いやる優しい心で安らぎや癒しを与えるイメージの世界での価値ある創造物を現実社会で実現化していくこと
0のつくナンバーは霊的な素質を豊かに発揮する能力に恵まれています直観力や洞察力が目的成就への有効な手段となります

■Nature■ 11-2

物腰柔らかく 皆を見守っている感じ
控えめだが聞き上手なのでよき相談相手になってくれそうな方
細やかな気配りのできる女性的な信頼できる人

■Action■ 7

深い洞察力と論理的な分析力を持ってひたむきに探究を続け
いろいろな環境の変化の中でも好きなことに対する情熱を持ち続けて徹底的にやることで専門性を極める




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■Cycle Number ■

0から30歳
Cycle 3-Pinnacle 9-Challenge 3

3は豊かな表現力 感性多趣味多忙な人
9番は才能豊かな人
幼い頃から書くこと描く事に優れていて環境のいかなる変化の時も描き続け書き続けることに努力を惜しまなかった人です辛さや苦しみの中でも自分の感情を誠実に表現し内的エネルギーを解放していたのだと思いますそして絵を通して表現力を惜しみなく世の中の人や子供たちに使い寄り添っていたのだと思いますがピナクル9はいろいろな問題を抱えて精神的な成長をしなければならない直揺れに揺れていた状況だったと思います

33から44歳
Cycle 6-Pinnacle 16-Challenge 5

輪郭のはっきりしないちゃんと描けていない技法と批判を受け
ちひろ自身もそのことに悩み孤立していった中で 多くの体験や事態に遭遇し何度も価値観を変え まず自分を信頼し人を信頼することあるがままを受け入れることでちひろはこれまでの迷いを捨て 自分の感性に素直に描いていくことを決意して1962年の作品「子ども」を最後に油彩画をやめ水彩画に専念することにした
変化を受け入れ内面の自由を見つけていたのでしょう

45から53歳
Cycle 6-Pinnacle 7-Challenge 2

独自の画風を追い始め それまで培った技法は絵本などの作品にも多く取り入れられている多くの経験を重ね視野を広げよりたくさんの人と交流を重ね心を解放し分かち合い自分自身を信頼して変化を受け入れながら愛の精神で幅広く世の中の人や子供たちの心に寄り添っていったのです

54歳から
Cycle 19-Pinnacle 13-Challenge 2

環境ではない本当の自分の価値基準を乱す大きなテーマを見つけ社会に貢献すべく専門領域を極め精神を極め人々に癒しを与え自分の内面や周りを安定できる状況になってきているそんな時体の変化を知りそれを静かに受け入れその時まで命の象徴として子供たちを描き続けたのでしょう



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〈History 〉

1998年12月15日
建築技師である岩崎正勝と教師である文江との間に武生市で長女として生まれた
岩崎家は当時としては非常に恵まれた家庭であった ラジオ 蓄音機 オルガン等の品々がありカメラも所有しており当時の写真が数多く残っているちひろは絵や書の才能があり
その一方で水泳スキー登山などもこなしていたようです

1933年15歳 (Year Number 16-7)
岡田三郎助に師事 デッサン油絵を習う
母文江はちひろの絵の才能を認め母の勧めでデッサンや油絵を習う展示会で入賞を果たした
極めるものを見出せた時である
美術学校に進むことを望んだが反対にあって断念する

1936年18歳(Year Number 19-10-1)
コロンビア洋裁学院に入学
自分の望む進路ではなかったようです

1937年19歳(Year Number 20-2)受容
小田周洋に師事し 藤原行成流の書を習う
両親の意向を受容しながらも自分の進むべき道を模索しながら小さな1歩を踏み出している

1939年21歳(Year Number 22-4) 波乱の人生
婿養子を迎えた結婚
夫の勤務地である満州大連に渡る
3人姉妹の長女だったちひろは両親のすすめを断りきれずに婿養子を迎える望まぬ縁で形だけの結婚であった

1940年22歳(Year Number 23-5)変化
夫の自殺により帰国
再び小田周洋に師事し書を習う
辛い苦しい思いを持っての再出発だったでしょう

1945年27歳(Year Number 19-10-1)
空襲で家を焼かれ母の実家長野県松本市に疎開そこで終戦を迎える
このとき初めてちひろは戦争の実態を知り
自分の無知を痛感し、後に共産党に入党したりちひろは「子どもの幸せと平和」を願って原爆やベトナム戦争の中で傷つき死んでいた子供たちに心を寄せていたのでしょう
19-10-1自分が進む本当の自由を見出したのでしょう

1946年28歳 (Year Number 20-2)
疎開先の松本で日本共産党に入党両親に相談することもなく同年上京して人民新聞社の記者となる日本共産党宣伝部芸術学校に入り丸木俊に師事する
この頃から数々の絵の仕事を手掛けるようになる
20-2 変容体験を通して自分に植え付けられたもの排除して自分が体験していることを人に伝えていく

1949年31歳(Year Number 23-5)
紙芝居(お母さんの話)を描きこれをきっかけに画家として自立する決心をした松本善明と知り合う
5で人生の目的自由勇気を持って変化にチャレンジしていった

1950年32歳(Year Number 24-6)
松本善明と結婚 6番のテーマは愛を学ぶ 結婚 離婚を経験して自分の内面の強さを学ぶ
結婚にあたって2人が交わした誓約書が残っている
そこには日本共産党員としての熱い情熱とお互いの立場 特に画家として生きるちひろの立場を尊重しようとする姿勢が記されている

1951年33歳(Year Number 25-7)
長男松本猛誕生

1972年54歳(Year Number 28-10-1)
童画ぐるーぷ社の展覧会に出品これが「戦火の中の子どもたち」制作のきっかけとなる
10-1始まり新たなステップ再誕生

1973年54歳 (Year Number 2)
病気が見つかる

1974年55歳(Year Number 3)
人々に道の光を投げかけていたのでしょう
1974年8月8日死亡


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*いわさきちひろさんを読んで*

以前からちひろさんの絵が好きでした
あたたかく優しさ溢れるきれいな絵です
優しいタッチで子供たちの顔の表情を生き生きと表現できる人
幸せあふれる優しい人の描く絵だと思ってました 写真から想像する彼女の印象です。
今回彼女をリーディングするのはまったくの偶然からでした。しかし数字を見たときディスティニー、ソウル、パーソナルが私と同じ それに8と9が多い方にびっくりしました
私も多い方です。俄然リーディングする意欲が湧いてきました。でも第一印象とあまりに違うことの戸惑いと数字の持つ意味に改めて神秘と驚きを感じました
自分の人生にリンクする部分にも驚かされました。穏やかに優しく微笑んでいる写真のちひろさんからは想像できない 辛く苦しい人生を受容しながらそこから自立していく長い日々を地道な努力とそれでいてパワフルでエネルギッシュな人生をあまりにも早く駆け抜けたちひろさんに私のこれからの人生まだまだ頑張れると背中を押された思いでした

私の両親は今の私の歳にはすでに人生を終えています
この先の私の人生はおまけの人生だと思っていました。いまさらこの年でこんなに頑張らなくてもと思う気持ちも少しありました でもこれからのおまけの人生精一杯頑張っていこうと思わせてくれました。
そして8番を持っている私は結構この頑張りを楽しんでいるのも感じています
やっとスタートラインに立っている私ですが穏やかではあるがパワフルでエネルギッシュに進んでいこうと思いました

Reported by Yoshie
AEONS Numerology Basic 10th Class @ yokohama
by kej000 | 2016-07-25 23:08 | 数秘レポート

微笑みの貴公子の強靭な精神性・・「ペ・ヨンジュン」

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Bae Yong-Joon 
ペ・ヨンジュン(裵 勇浚)
生年月日1972年 8月29日
43才(2016年7月現在)
ソウル出身(1男1女の長男)

「微笑みの貴公子」と呼ばれ、韓流ブームの火付け役になったペ・ヨンジュンをリーディングしました。

Birth 11-2 相対
<深層意識>
11は『霊性』のナンバーで、1+1=2であることから、2の感受性の振幅が増し、さらなる内面への探求へと向かいます。1と1でもあり、創造、独立、革新、行動力など1の長所の相乗効果も。
11は天と地の橋渡しとも言われ精神世界と現実世界を結び付けていくことがミッションになるので、俳優という芸術の道で精神性を昇華させていったのでしょう。
「微笑みの貴公子」といわれたヨン様スマイルは、世の女性に安らぎと癒しを与えました。
2は感受性が豊かで、とても優しく、人を思いやる心を持っているナンバーであり、彼自身もファンを「家族」と呼び、スタッフにも謙虚に接し、いつも細やかな気配りができる人でした。そんな優雅な物腰、心癒される笑顔だけでなく、内面に秘められた強靭な精神力、知性と教養にも魅了されたのでしょう。冬ソナ以降、慈善活動も積極的に行っています。最近の彼はというと事業家投資家として韓国で財閥に劣らない資産を築いています。

Destiny 6 調和
<使命や目的>
自分や誰かのためではなく、崇高な愛をもって世のため人のために尽くすナンバー。
まさに彼は使命ととらえ、周囲の人への奉仕やサポートをし、積極的に奉仕活動や寄付をし、社会貢献活動を行っています。
『冬ソナ』のブームで、日韓交流の立役者でもあり賞賛される反面、まだまだ反日反韓感情が根強い現実も受け止めていた彼は「私に役割があたえられているとしたら、国家領土に線を引く(竹島問題)ことより、アジアの家族(ファン)たちの心と心の線をつないでいくことではないかと思います。そしてその仕事に最善を尽くしたいです。」と答えていて、俳優として文化の交流を通しアジアを一つにしたいと念願し現在も活動しています。

Soul 6 調和
<魂の欲求、行動基準>
愛・美・調和、真善美の境地を極める、自己回帰へ向かうナンバー。
調和を象徴する意味では美的感覚にすぐれていますので、表現者として写真家として芸術面で才能を開花させました。誠実でやさしく周囲に癒しを与える人。Destinyも6ですので、ヨン様のイメージと彼自身にギャップはなかったのではないでしょうか。愛情や家族のナンバーで、家族や親しい人をとても大切にし守っていく。とても義理堅く、大切な人のため、また世の中の人のため、何かしたい!という奉仕の気持ちが強くヨン様の慈善活動は有名です。

Personal 9 完結
<他者からの印象>
物腰柔らかそうで人当りの良さは多くの人が彼に対し持つ印象です。『ヨン様スマイル』のイメージが強いからでしょう、こんなにもヨン様ブームになったのは、彼または彼の役が真善美を備えた理想の人だったからではないでしょうか。 

Realization 8 秩序
<可能性、実現>
自己信頼と能力を育成し、地道な努力を続け、常に達成へ向かうナンバー。とても情熱的なエネルギーの持ち主で、何事においてもとても前向きに突き進んでいく行動力と力強さがあります。映画監督の道を選んで映画会社に入るも雑用ばかり、そんな時期でも映画や芸能界に少しでも触れていられるだけで幸せと仕事をこなしながら夜は演技の勉強をしたり、そんな毎日が楽しかったと述べてます。社会的に活躍することがテーマ。お金や地位や名誉などに囚われず葛藤やバランスをとっていきながら物質社会で学んでいくこと。富や名誉を得た中で、今後の動向に注目したいです。

Stage 7 飛躍
<精神性の領域、仕事の舞台>
マニアックに探求するナンバーで、彼は常に俳優としては未熟だというコンプレックスがあり、自分の未熟さが恥ずかしいあまり、不足の部分を隠そうとしていたそうです。不足感は感じながらも、今はそこから解き放たれ、ありのままの自分をさらけ出し、ファンの前で「ぺ・ヨンジュンは発展していきますから」と公言し、自分にも向けたメッセージだと述べています。

Challeng 14-5 変化
<試練数、チャレンジ>
14は、過去生で自由を取り違えていたので今世で真の自由とは?を学ぶナンバー。また14-5は、機敏に動くバイブレーションをもっているので海外に縁があります。まさしく韓国にとどまらずアジアで活躍することで固定概念にとらわれることなく「自由」を探求しドラマチックにやっているのではないでしょうか。

Nature 3 発展
<自然にもっている雰囲気>
与えられた試練や今回の人生での課題。
上品で礼儀正しく知性があふれています。そして、一番の印象は「癒し」。


Action 2 相対
<行動パターン>
バースも2である彼は、優しく人を思いやる心を持ち、感受性豊かに直観的な洞察力も合わせながら、活動しています。また、平和的活動も積極的に行っています。




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Cycle Number : どのようなことを学ぶ時期か。

 0~34才 8 
バイタリティーを持って地道な努力を続け成功を目指し、富や名声を得ることを経験した時期。29才で冬ソナに出演し、31才ごろヨン様ブームで爆発的な人気を博しました。

 35~52才 11→2
理想に向かって強い意志を持ち、直観や感受性豊かに変化を受け入れながら調和していく。韓国では自分を隠さない、足りないものがあれば堂々と補うのが当然という考えで、何事も上昇志向が強い国民ではあるが、彼は成功後も「世の中は早く変わる中で、内面が停止していたらいつかは淘汰されます」と述べています。これからも常に地道に新しいことに挑戦していくことでしょう。


Pinnacle Number : どんな状況の時期か。

 0~34才 1
1番何が大切なのか?どう生きたいのか?をインスピレーションや直観を信じ、社会に
打ち出していく時。人に癒しを与えられるナンバーなので俳優としても人としても、そんなイメージを根付かせた時期だと思います。

 35~43才 3
発展の時。マルチに明るく楽しく表現をしていく。
まずは自分が光り、そしてまわりに光をなげかけていこうと、精神的な喜びを人に与えていく。芸能活動としては俳優業以外にもプロデューサーや若手俳優の育成などや、事業家としてもマルチに表現しています。

Challenge Number : 与えられた試練や今回の人生での課題

 0~34才 6
イメージの世界で価値ある創造物を現実社会で具現化すること。
彼は「冬ソナ」のアジアでのヒットを通し、韓国も日本も情緒や感情が同じということ、韓国と日本が近くなるきっかけに繋がったことに喜びと使命を感じたと述べています。

 35~43才 10-1
10は大きく流れが変わります。前世でやりのこした目的を今生で果たすナンバー。
人道的な目的や人に癒しを与えていく。日韓の架け橋という意味では、1でいう開拓者といえるでしょう。また、この時期に事業家としても成功していて、現在は、アジアでの大きなシェアを誇るエンターテイメント会社の筆頭株主として、彼が理想としていた「アジア各国のエンターテイメント業界と双方向で交流を広げる事業がしたい」という夢が実現されました。



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HISTORY

若年期 8
幼少期のヨン様は外で遊ぶより、屋根裏部屋などにこもって一人で物事に没頭する内向的な性格だったようです。玩具で遊ぶのも普通の子どもとは少し違って、タダ遊ぶだけではなく、解体して仕組みを調べてまた組み立てたり、 とにかく好奇心が強かったようです。
しかし、貧弱な子どもであったのかというとそういうわけでもなく、 父親のススメでテコンドーと柔道を習ったりもしていました。
12才 5(5のサイクル) 
さらに変化をする時期。
学校に入学すると勉強に没頭するようになります。彼の旺盛な好奇心が今度は勉強に向かったというわけです。中学時代の彼の成績は非常に優秀、いわゆる優等生でした。
15才 8
バランスを学ぶ年。
高校に入り、内向的な性格を改善するため、友人たちとのスポーツを楽しむよう心がけました。建築家になる夢を持ち始めた時期。
18才 11 
感受性を増し、内面への探求に向かう年。
大学受験に失敗し敗北感の中、将来どうすべきか考える為に無銭旅行へ出て、力仕事や物売りをし、また受験に挑むことを決意しました。
19才 12 
不要なものをそぎ落とし新たな1歩を踏み出す年。
2度目の大学受験も失敗。ここまでして大学に行く意味があるのか?と自分の生きる道を真剣に考えました。そして、かつて観たアメリカ映画に影響を受けていて「映画監督」になりたい!という夢が明確になり、映画制作会社に入社しました。
21才 5
大きな人生の転機の年。
会社では映画監督とは縁遠いポスター貼りや力仕事の雑用ばかり。映画に携われることだけでも幸せと日々仕事をこなす中、映画のためならどんなことでも身につけていくと意欲満々に、演技にも興味がでてきて、セリフのために発声やアクション、繊細さも必要とクラッシックバレエなど寝る間を惜しんで努力していました。
知り合いにドラマオーデンションの話をすすめられ、まだ準備不足な自分なので、受かりたくないと思いながらも受けたら見事合格しました。
22才 6  
忍耐と歓びと感受。メディアでの収入。
「愛の挨拶」で主役として俳優デビュー。俳優経験のない彼にとって重責で、そのプレッシャーで不眠になったりしながらもこのままではいけないと撮影後、夜に演技やセリフの指導をうけてました。毎日ムリをし睡眠不足と疲労で2ケ月で体重が12キロもおちました。そんな苦労の撮影の中、監督が見違える程よくなったと褒めてくれたたった一言で自信が持て、彼の演技者としての才能が芽生えた時期でした。
初めて俳優で収入を得ました。
28才12 
19才の12と違い、苦しい中での変化ではなく、自ら変化を選ぶことにより断舎離し内的エネルギーを解放。
二度の受験の失敗という挫折から乗り越えた今でも、根っこにまとわりついていた「失敗や敗北」というものを解くためにも大学へ行く必要性を感じ、また映画監督への夢の実現に向けて勉強したいという両方で成均館大学に入学しました。
29才 13 
急上昇、開始の年。
「冬のソナタ」に出演。韓国で放送とともに国内で「冬ソナ」旋風が起こりました。
32才 7(6のサイクル)  
調和のサイクルの中での飛躍の年。
アジアでの「冬ソナ」の大ブームで、「ヨン様フィーバー」が一気に過熱した年で、俳優として最高に開花した時期でした。しかし、その人気の渦中にいても彼は「経験が足りない」「まだまだ学ばないといけない」と冷静に次へのステップへと学びを深めていった時期でもあります。またこのころから彼の社会貢献(寄付)活動がスタートしました。
33才 8  
お金や地位や名誉を手に入れる年。
倒産寸前の会社に9億円を出資し筆頭株主。日本でも飲食店の経営にも。
34~35才 9→10 
ドラマチックに変容しながら未知の領域に入る時期。
4年ぶりのドラマ「太王四神記」に出演しました。今までの出演ドラマとはケタ違いの壮大な規模のスペクタクル時代劇でした。1年8ケ月に及ぶ撮影で度重なるケガをしました。
36才 11 
霊的感受性が強くなり、直観やインスピレーションが働く。消極的だと揺さぶられる年。
過密スケジュールの中、長期休養ためNYへ。常に精神世界と現実世界を行ききしている中で、精神的な平穏を保つための休養だったと。
韓国政府から「文化勲章」を受章
無断掲載による肖像権の侵害で出版社に損害賠償訴訟

37才 12 
コラボレーションの年。
「ヨン様フィーバー」から少し落ち着き、仕事の内容も少しずつ変化し、コラボレーションした仕事が多くなった時。そんな中過労でダウン、敗血症で入院。幸いにも初期症状で大事に至らず。
38才 13 
ヒーリングの年。
東北太平洋地震への寄付(7300万円)
42才 8(7のサイクル)
責任や義務、達成の年。
女優のパク・スジンと結婚



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ぺ・ヨンジュンを読んで。。。

「冬ソナ」出演をきっかけに彼の人生は大きく転換しました。彼自身の人生だけでなく、アジアにおける韓国の存在や、また日本においては経済効果や「韓流」というカルチャーを築いたことはひとつの歴史に残るものとなりました。
人気とともにアンチ思想の両方を彼は冷静に受け止めていました。バース「2」の急速な変容を冷静に受け止め、そして、その両方を感受し調和を目指していく。
そのために「韓流は一方的な流れにしてはならない」「重要なのはアジアのエンターテイメントを発展させていくこと」「相互に補充しあう関係を作りたい」と述べています。果たすべき役割に対し、強い責任感と使命を持ち、地道に謙虚に活動してきたのではないでしょうか。

あれよあれよとアジアの大スターになった彼、しかし常に自分は不十分だと感じていたそうです。それは「6」の完璧主義や心配性「2」の相対を受け入れず比較し劣等感や不足感など、アマチュアの部分がでているのかと思いましたが、調べていくうちに安にそれだけではなく韓国人特有の捉え方がそうだといくこと。

どういうことか、「苦しい時」日本人は気休めでもいいから楽しいことで紛らわそうとする。一方、韓国人は奥底に宿る一つの情緒に「恨(ハン)」というものがあり、それは単なる恨みではなく、「苦しみがあれば、それが宿命と受け止め絶えて生きていく」「心から願ったことが叶わなかった時、それが恨となってその人の心を苦しめる。」また、先祖から受け継いできた民族的感情の最たるものが「恨」だそうです。この「恨」が、韓国人の心の在り方と密接に結びついているということ。そこがまずベースにあることを踏まえ読むと「6」の「まず自分を愛する、受け入れる」。そのために「2」でおしんを経験し「6」の忍耐強さと「8」の負けず嫌いと強靭な精神力で、まずはありのままの自分や受け入れ、さらけ出し、解放したのではないかと思います。そこから「2」の他人を受け入れ「6」の人を愛し「8」の情熱で行動していく。

彼はこう述べています。その「恨」という情緒が、日本人の心に共感共鳴し、たくさんの人の心を掴んだのが「冬ソナ」と。そのことで彼もまた、韓国とアジアの人々の心が繋がったことに共感共鳴しました。それが根底にあったからこそバッシングを受けながらも揺れることなく、自身が架け橋になるように勢力的にドラマチックに駆け巡ったのではないでしょうか。
彼のプライベートはあまり情報公開されていないため、俳優として芸能人としてのイメージでのリーディングに比重が多くなりましたが、彼を取材した方や彼に関わった方は、素顔もやはり「ヨン様」そのもの。孤高な人生哲学を持ち、謙虚で穏やかで、しかし強靭な精神を持った男らしい男だそうです。現在は俳優活動をお休みされていますが、今後また俳優として新たな作品で出会えることを期待したいです。


Reported by Keiko
AEONS Numerology Basic 10th Class @ Yokohama

by kej000 | 2016-07-25 22:00 | 数秘レポート

笑者でありたい・・「ミスチル・桜井和寿」


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櫻井 和寿 
Kazutoshi Sakurai
生年月日 1970年3月8日


日本のミュージシャンであり、Mr.Childrenのボーカリスト、ギタリストである。本名の読みは同じです。
東京都練馬区出身。アマチュア時代から一貫してMr.Childrenの楽曲の作詞、作曲を手掛けている。 2004年からはBank Bandというチャリティーと音楽をつなぐ活動をしています。



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[バースナンバー 10-1 ]
バンド結成から現在までMr.childrenを引っ張ってきたのはもちろんのこと、老若男女を問わない認知度はミュージックシーンを開拓し新たな音楽を創造してきたからこそ。Mr.childrenは高校生の時に結成されて以来、彼の作詞作曲のもと、活動をしてきました。メジャーデビューの話をもらった時の事ですが、櫻井さんの提案で音楽を見つめ直すために3ヶ月の活動休養を提案。メジャーデビュー前に活動休止をしようなんて聞いた事がありませんが、この斬新なプロ意識は音楽活動を今一度見直すというもので、3ヶ月後Mr.childrenは『気持ちがナチュラルなときに感動できるっていう普遍性のような魅力』目指すようになったと言われています。そして今もその方針は変わっていないのです。
まさに1のピュアな独創性と開拓精神に満ち溢れた創始者で、10の直感力に長けています。
また彼は、19の素質である激動の変化をくぐってきた方です。


[デスティニーナンバー 12-3]
最近のインタビューでは「何かのせいにするのではなく、発送を転換することでポジティブに明るくなれる。それを提案みたいな感じでやっている。それが今のMr.childrenです」とおっしゃっています。
実際、最近彼は歌うとき笑顔を浮かべて歌うことが多いと感じます。それは、笑顔で歌えるような曲ができるようになったということです。


彼はブレイク後、様々なことを経験しました。それは楽しいといえるものではなく悲しみと苦しみによるものが多く、彼がその時代にリリースした曲や詩には劣等感だったり現代への悲観的な投げかけ、さらに人間の脆さをテーマにしたものばかりでした。
上記のような非常に激しい人生を乗り切ったからこそ『愉しむ』『JOY』ということがどれだけ難しく大きなテーマなのかを理解する事ができるのだと思います。
また、ミスチル現象といわれる大ブレイクを果たしたミスチルでしたが彼は正反対に追い込まれていったというのはファンの中では有名な話です。彼が鬱状態だった時期と言われています。売れた途端にマスコミから追われ、自分たちよりも音楽を聴いてほしいという気持ちに苛まれていった時期があったとおっしゃっています。3のアマチュアの状態が強く出ていた頃でしょう。
この時の曲には彼の中のマイナスの部分との葛藤や現実社会の汚い部分をテーマにした曲が多く混沌の中でもがく櫻井さんのイメージが強く残ります。サイクルの説明の際に解説させていただきますが、彼はある出来事により大きく変化を遂げます
。まず歌うとき笑顔で歌いますぽ。そして歌というものへの探求は一語一句を音でどう表現するかという情熱と野心を強くしていきます。
また彼は、最近のインタビューの中で「僕は、笑者でありたい』と語っています。彼の中で、笑顔で愉しむという感覚が非常に鮮明に目指すべきものに変わっていると感じます。



[ソウルナンバー 6 ]
彼が変化するきっかけとなったの大きな出来事が結婚と離婚でした。売れない頃から支えてくれたマネージャー的な存在の方と結婚。その後Mr.childrenは大ブレイクを迎えました。おそらく奥様は身を投げ出し、彼等を必死で売り込んでいたのだろうと思います。しかし一方でプライベートでも仕事をしている、追い込まれている感覚になり自分達ではなく、音楽を聴いてほしいという気持ちが重なり、鬱状態へとなって行きます。そんなある日、彼のもとにある女性現れます。それが現奥様です。彼女と不倫関係になり、彼の実家の近所に住まわせていました。この時点で彼が心を許すことができる女性なのだと感じます。離婚調停中に彼は会えない不倫相手(現奥様)に歌を捧げます。そして、離婚が成立した後すぐ再婚をしました。その数年後、彼は元お子様とお子さんにも曲を残しています。『優しい歌』とい曲はお子様にあてられた曲だと言われています。彼は愛を表現する手段も歌なのだなとふつふつと感じます。
その愛は身内だけではなく、時には他者へも向けられます。彼は最近よく悲惨なニュースというフレーズを曲に使います。これは、『事件とか悲しいニュースの責任追求をするのではなく、自分の内面にもその責任や原因の一端があるんじゃないかと意識する』6の特質である本質を理解しているのではないかと感じる発言です。
また、彼はブッタの言葉に強い衝撃を受けたとおっしゃっています。『生まれたばかりの我が子が死んでしまった母親へ向けた、生きている子は生きているまま愛せばいい、死んでしまった子は死んだまま愛せばいい』という言葉。この言葉をきっかけに彼は『愛とは、想像力の事で自分以外の誰かを想像してあげる力のことをいうのではないか』という信念で曲を作るようになったとおっしゃっています。
自分は何者なのか自己回帰をし、他者へも愛情をおすそ分けできるまさに6のナンバーの方だと感じます。


[パーソナルナンバー 6 ]
おっとりというイメージはあまりありませんが、メンバーといる時はどちらかというとあまりしゃべらずニコニコしていることが多いイメージです。また、彼はお子様が4人もいらっしゃる子煩悩パパです。


[リアライゼーションナンバー 4 ]
感情と論理の調和という4の特性を強く感じます。彼の音楽は常に人生の出来事とともに変化しています。
また音楽業界への開拓は、時代によって変化していく曲と彼の認知度で証明することができると思います。


[ステージ 5 [
まさにクリエイティブな世界で活躍しています。


[チャレンジ 22-4]
彼のコアナンバーの波動は強いのですが、あれだけの影響力とパワーには何か物足りない感じがしていました。そして、チャレンジナンバーの22が大きな影響を与えているのではないかと感じました。
人生の課題に22という大きな数字をかがげている。ファンの中では教祖様のように感じる方もいるくらい彼のつくる言葉は影響力があります。
自己の目的を公的なものに定め、個人的利益を追わず大きな視野のもと広く循環する環境エネルギーを意識する、という22の目指す部分は、2004年から彼が始めているチャリティー団体『Bank Band』がまさに22を高めていくきっかけなのではないかなと感じます。



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year cycle

幼少期 3
勉強はできなかったが、運動神経が良かったそうです。体にイボが100個くらいあって『イボ野郎!』とからかわれたけど、『みんなから注目される、この状態が気持ちいい』思っていたそうです。まさしく3の楽観的な状態。
中学時代に不良グループの仲間にされ「万引きしてこいと』命令する番長が嫌で交番に行き自ら『僕は万引きしております』といい、親に知られ不良グループから抜けたそうです。自分の感情を誠実に表現したのでしょう。


15歳 19-25
2桁という世の中に運翻弄される数字の中でも音楽に興味を持ち初バンド『beatnik』結成。
現在Mr,chiidrenのギター田原とベース中川とはこのころからの付き合いである。
このころから感覚的に自分が一生付き合っていく人をチョイスしていたのかもしれません。


19歳 2-2
今までの二桁の人生から初めて1桁に変わる時、『Mr.children』とバンド名を変更した。そして渋谷でのライブで現音楽プロデューサー小林武史との出会いを果たす。人生で一番大きな出来事ではないかと思いますが、自分の意思だけで動けるサイクルにこんな重要な事や出会いがあったとは、驚きです。


22歳 2-5
小林氏がきっかけとなり芸能界でメジャーデビューを果たす。大きな変化となる。
しかし2のサイクルということは、どちらかといえば受け身で芸能界へ入って行ったのだなと感じます。
それは後々の発病とつながっていくのかもしれません。


24歳 2ー7
『crossroad』で大ブレイク。ミスチル現象という言葉まで誕生した最中、マネージャーをしていた女性と結婚。
まさに新たな生活状況のスタートを切っています。


27歳 2-10
精神不安定で鬱状態になる。以前から不倫していた女性とのスキャンダルで、泥沼離婚となる。このころが本当に辛い時期だったと思います。彼の歌っている表情に笑顔はなし。このころ活動休止します。


30歳 3-4
離婚が成立し、不倫状態だった彼女と結婚。今でもオシドリ夫婦と知られるほど仲が良い。
彼女のバースナンバーは21-3なので、何か本来の自分と重なる部分があったのでしょう。


32歳 3-6
小脳梗塞を発症。6のアマチュア状態。しかしこの時多くの仕事を一切休止し多忙だった日々に変わり少し時間ができたでしょう。彼はこのときに自己回帰をで自分は何を求めていて何がしたいのか本質を探り、奥様や身内の方の愛を強く感じることで愛というもののすばらしさに目覚めたターニングポイントなのかなと感じました。曲調が変わるきっかけはおそらくこの時の感覚なのではないかなと感じます。


33歳 3-8
環境保護や自然エネルギーなど様々な環境保護プロジェクトを低金利融資」する為の「bank band」結成。これは音楽プロデューサー小林氏と彼が結成している。8の時にきっちり契約を結んでいます。
またこのころから彼の詩には今までの恐れや恐怖心が感じられなくなりました。


46歳 4ー11
休止していたが、復帰しライブなど精力的に活動。昨年何かきっかけがあったのかもしれません。
Pinnacle no.が45歳から9に入っているので、スピリットな領域へ進み完結や色々な方の教祖のような役割を受け入れ、進んで行くような気がします。




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彼から私が学ぶこと
調べて思ったのは、やはり世界一いい男だと思えること!
そして、彼の純粋な心です、彼の曲は人生の変化と共にあり更に大きな高みへ向かっている。
私が彼から学ぶことはまさしくエゴを捨てる事だと感じます。
また自分のChallenge No.が32歳から40歳まで1のサイクル、41歳から49歳までもう一度1がchallenge No.で入ってくるのです。櫻井さんをみるきっかけとなったのも彼のB No.19-10-1を知る必要があったからなのかなと感じました。
そして、今櫻井さんのように好きでしょうがない、人生を共にする何かを見出すことなのかなと感じました。
彼のように私もPinnacle no.に9をも持っています。彼のように変化を受け入れ、成長していきたいと思います。



Reported by Kanae
AEONS Numerology Basic 10th Class @ Yokohama

by kej000 | 2016-07-25 21:32 | 数秘レポート

人生をまるごと愉しむ*任天堂・岩田聡 

日本を代表するゲーム会社 任天堂(株) の経営者であり天才的プログラマーであった岩田聡さん
ゲームを通して世界に革新的エンターティンメント発信し続けた 彼の生涯を数秘で辿るレポートです



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岩田聡(iwata satoru)
1952年12月6日~2015年7月11日(満55歳)
任天堂株式会社 前代表取締役社長

岩田さんは、社長に就任してからの7年間で、任天堂の売上を約3倍に増やした敏腕経営者です。そして、一方で「社長にしておくのがもったいない」と言われるほどの能力をお持ちの、天才プログラマーです。「星のカービィシリーズ」をはじめ、数多くのヒットゲーム作品を生み出されました。

私は岩田さんの存在を、ネット上で公開されていた対談記事をたまたま読んで、知りました。特にゲームが好きなわけでも経営に興味があったわけでもなかったのですが、あっという間に岩田さんの魅力に惹かれました。岩田さんの、ロジカルな思考回路と人を思いやるあたたかさが同居している、不思議な魅力を紐解きたくて、リーディングさせていただきました。




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IWATA SATORU

Birth number:15-6
「6」は愛と調和、真・善・美、奉仕のナンバー。
Birth numberに6を持つ人は、誠実で控えめで、周囲に癒しを与えられる人、愛情深く思いやりがあり、様々な人の気持ちを受け入れられる人と言われています。

そして、岩田さんはまさに、6の人であったと思います。

岩田さんが32歳の時、当時勤めていたHAL研究所というゲーム開発会社が多額の借金を抱え、経営難に陥ります。岩田さんはそれまで役職にはついていたものの経営にはあまり関与せず、ゲームソフトの開発に専念されていたそうですが、自身が社長になることが一番合理的だと判断し、経営未経験の身ながら社長に就任。そして6年間で15億円の借金を返済してしまいました。

これは一見、岩田さんの冷静で合理的な判断力を表すエピソードのように見えます。しかし実は、岩田さん自身、理系的に何が得かと考えれば社長就任という選択肢はなかった、とお話されています。また、社長就任を打診されて最初に考えたのは、逃げることだったそう。それでも逃げずに、損をするかもしれない社長という道を選んだのは、「一緒に汗をかいた仲間がいるのに、どうして逃げられるかというのがいちばんおおきい要素」だったそうです。

仲間がいるから逃げない、という発想の根っこにあるのは、論理性でも合理性でもなく、仲間に対する「愛」だったと思います。
岩田さんがロジカルで常に「最適化」を考えてこられた方なのは、間違いありません。しかし、その発想や動機の根底に流れていたのは、「愛」だったのではないかと思います。

岩田さんの部下として働かれていた方は、岩田さんのことを、時に面倒だなと思うくらいに「人が好き」というエネルギーに満ちている人だったと語ります。
また岩田さんは、人が困っていることを解決したい、という動機があれば、自分よりも相手を優先してしまうことがあったそうで、もちろん冗談ではありますが、ある人から「それはもう一種の病(やまい)だ」と言われてしまったそう。

6ナンバーの人は深い思いやりを持っているがゆえに自分よりも周囲を優先してしまい、本来の自分を見失ってしまいがちともいわれていますが、岩田さんの「人のために」という想いには、自己犠牲的な悲壮感は見られません。他人の問題をまるで自分事のように考え悩む岩田さんは、周囲から見ればうれしそうにしていたそうですから、本当に心から、人が困っていたら解決したい、と望んでいたのでしょう。

岩田さんは、とあるインタビューで「私は、ただしいことよりも、人が喜んでくれることが好きです」と語られています。

天才プログラマーであり敏腕経営者であった岩田さんの、とても6ナンバーらしい言葉だと、思います。


Destiny number:4
「4」は、組織の土台や秩序をつくる、現実社会の中で基盤をつくっていくナンバー。

岩田さんは前出のHAL研究所で社長として見事に会社を立て直し、任天堂の当時の社長に経営手腕を買われて任天堂に入社。そのわずか2年後に代表取締役に就任されました。
任天堂という大企業の舵を取る中で、特に「開発体制」という組織の基盤づくりに力を入れ、ベテランと若手の両方が力を発揮できる環境を、と心がけてこられたそうです。岩田さんの死後、任天堂の経営体制は大きく見直されましたが、その体制も、岩田さんと役員陣とで何年も取り組まれたことだったので、大きな混乱はなかったそう。

思わぬところから、社会人人生の半分以上を会社経営者として過ごされた岩田さんですが、D4の使命をしっかりと全うされました。


Realization number:10-1
「1」はリーダーとして周囲を引っ張り、自分を信じて創造、革新、開拓していくナンバー。

岩田さんは任天堂の社長に就任して以降、まさに革新的といえるゲーム機を次々と発表されました。

「ニンテンドーDS」や「Wii」は、今でこそ大人気ゲーム機として世に定着していますが、どちらも発表当初は否定的な意見が多く、「任天堂が変になった」という声もあがったそうです。それまでのゲーム機の延長線上ではなく、まったく別の方向性を打ち出したWiiについて、岩田さんは「社運を賭けた戦い」とインタビューで答えられていました。そしてその戦いは、任天堂という会社はもちろん、ゲーム業界全体の戦いであったと思います。

岩田さんは任天堂に入社する以前から、ゲームをする人(=ゲーム人口)の減少を懸念されており、任天堂の社長に就任してすぐに「ゲーム人口の拡大」を目標に掲げます。ニンテンドーDSもWiiも、販売当初こそ様々な反発が生まれたものの、それまでゲームに手を伸ばさなかった層を取り込み、見事にゲーム業界の常識を覆しました。

周囲や会社の成長だけでなく、業界全体を見渡し、変化を恐れずに新たな価値観を生み出す行動力は、まさにR1の本領発揮といえます。

また、「10」は人生のある時期にそれまでと全く違う道、特に人道的な目的へと向かうことが多くみられるナンバー。プログラミング一直線だった岩田さんが、ゲーム業界を牽引する立場になって、業界全体を盛り上げる道に進んでいったのも納得です。


Soul number:21-3
「3」は人生をまるごと遊び、愉しみと笑顔を求めるナンバー。

高校時代からプログラムを書くことにハマり、大学時代にHAL研究所でプログラミングのアルバイトをしていたら、おもしろくてそのまま入社してしまったという岩田さん。一流大学から一転、社員5名の超零細企業に入社したことでお父さんと決裂し、半年間、口を聞かなかったそうですが、安定した地位やお給料よりも、「おもしろさ」を最優先された3ナンバーらしいエピソードです。

いきなり大借金を抱えることになった社長業も「やっていておもしろくてしょうがなかった」そうですし、困っている人を助けるのも、その人がかわいそうだからというより「人が喜んでくれるのがおもしろかった」からだそう。Challenge numberが「3」であることも考えると、もしかしたら岩田さんは「おもしろい」という経験ができたのが今世が初めてだったのでは?と思うほどに、とても無邪気に、あらゆることをおもしろがっていらっしゃいました。

また岩田さんは、大企業の社長とは思えないほどフットワーク軽く、自社製品のアピールの場に登場されていました。ゲームキャラクターのコスプレをして豊かな表現力でゲームの魅力を語られる姿は、3ナンバーの表現者・エンターテイナーとしての一面だったと思います。


Personality number:1
「1」は周囲から、エネルギッシュで、しっかり者、責任感が強い人と見られるナンバー。

岩田さんはお写真や動画で拝見する限り、とても優しくて穏やかな印象です。実際に、一緒に働かれていた方も、岩田さんから威圧感を感じたことはなかったそう。常に周囲に目を配り、相手の気持ちを思いやりながらコミュニケーションを取られていた岩田さんですが、頼りなさや気弱さは一切感じられません。むしろ強いリーダーシップをお持ちだったと思います。
任天堂は創業以来、同族経営をされてきたそうで、岩田さんが初めての血縁ではない社長、しかも入社して2年目という異例の早さでの就任でしたが、その状況で大企業を牽引されてきたのは、皆をひきつけるカリスマ性をお持ちだったことが、要因の1つとなっていたのではないでしょうか。


Stage number:3
「3」は表現、エンターテイメント、精神的な喜びを提供するナンバー。

岩田さんは生涯、「ゲーム」という世界を通してエンターテイメント性を発揮されており、自身が最も輝く舞台で活躍されていました。



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0歳 Year number:24
北海道札幌市に生まれる。

16歳 Year number:22
hp社が開発した電子計算機の存在を知り、アルバイトをして貯めたお金で購入。その魅力にとりつかれて独学で学びながらたくさんのゲームを作られたそうで、岩田さんのゲームエンジニア人生はここから始まります。

20歳 Year number:26
大学入学祝いを頭金にマイコンを購入。今とは比べものにならないくらいの低機能ではありましたが、その限られた機能の中でプログラムを打ち込んでいったことが、プログラマーとしての下地を作ることとなりました。

23歳 Year number:2
サイクル2=学びと自立の年に、HAL研究所入社。

25歳 Year number:4
サイクル4=昇格の年に、取締役に就任。

34歳 Year number:4
代表取締役に就任。
取締役に続き、「4」の年に、会社の経営基盤をつくるポジションに就かれました。

41歳 Year number:11
任天堂に入社し、取締役に就任。
11は真の理想に向かって、目標をしっかり掲げる年。その年に、岩田さんはゲーム業界全体を救うために、任天堂に入る決意をされました。

43歳 Year number:4
代表取締役に就任。
HAL研究所に続き、任天堂の社長の座も「4」の年に就かれました。

55歳 Year number:7
胆管腫瘍を患っていることを発表し、休養に入る。
「7」は休息の年。ここまで全力疾走を続けていた岩田さんに、少し強引ではありますが、ストップがかかりました。しかしその2ヶ月後には、もう復帰されます。

55歳 Year number:7(年度としては、8になる年でした)
2015年7月11日、逝去。

同年3月に、ディー・エヌ・エーと業務提携し、スマートフォン向けサービスを共同開発することを発表されており、新たな挑戦をしようとされていた矢先のことでした。

その後、ディー・エヌ・エーとの共同開発は一時中断することとなりますが、岩田さんの1周忌を迎える今年7月、任天堂初のスマートフォン用ゲームアプリ「ポケモンGO」が海外で配信され、またたく間に大人気ゲームとなりました。





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岩田さんをリーディングさせていただいて感じたのは、とても「持っている数字らしく」生きてこられたんだな、ということです。「数字らしく」ということは、本来の自分らしく、時の流れに逆らわずスイスイと乗りこなしてこられた、ということです。そして、数字らしく生きることができたのは、自分の本音とちゃんと向き合ってこられたからではないか、と思います。

岩田さんの言葉で一番印象的なのが、「私の名刺には社長と書いてありますが、頭の中はゲーム開発者です。でも、心の底ではゲーマーなんです」という言葉です。どんな立場にあっても、人をおどろかせたい、喜ばせたいと願い、子供のようにおもしろさを求め続けた岩田さん。そんな、自分の本音に素直に、そして心から人生を愉しまれていた岩田さんの生き方に、私は惹かれたのだと思います。


Reported by Eri
AEONS Numerology Basic 10th class @ Yokohama

by kej000 | 2016-07-25 21:23 | 数秘レポート

生涯バンドマンにこだわった「忌野清志郎」


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忌野清志郎
(いまわの きよしろう)
職業:バンドマン
本名:栗原清志(くりはら きよし)※出生の時の名前は不明です。養子後の名前です。

生誕:1951年4月2日
死没:2009年5月2日


清志郎は、 RCサクセションのボーカルとして、日本のロック界に新しい風を起こし
「ロックンローラー現役で老衰で死んでいきたい」という希望はかないませんでしたが、
がんの闘病後もステージに立ち、あのソウルな歌声を聴かせくれました。
最後まで、アーティストではなく、シンガーソングライターではなく、バンドマンとして全うしました。人生そのものがロックの人でした。



★誕生数(生まれ持った特質・本来の姿)は、「22-13-4」

13-4は「修練」のナンバー。創造と破壊を繰り返す。オリジナリティ、リーダーシップを発揮する。ヒーラーの適正もあります。さらに、22は「創造」のマスターナンバー。創造性にあふれ、天と地の懸け橋となるような社会貢献をする。現実社会、組織の中で、大きな視野の愛のもと、偉業を成し遂げるパワーがあります。

「古いものを壊す側にいたい」・・・彼が生前に語っていました。
彼の作る音学の根底には、大ヒットするために綺麗にまとまるではなく、
今までの誰かを真似するでもなく、
とはいえ前衛的に走るではなく、
自分たちだけのオリジナリティやスタイルを模索し続けていたようです。
ラブソングばかりではなく、
時には、原発や君が代をテーマとした曲を歌う。
音楽やテレビ業界に向けての風刺的な曲を歌う。
時代時代に合わせて、ユーモアとお茶目な表現力で、
つねに権力的な立場に対して、正直な気持ちをこめた音楽もたくさんありました。
世間では、問題児として取り上げられるものの、
歌詞は、公平で、平和で「愛」のあるものでした。
彼は実の母と父を知りません。3歳の時に養子に迎えられ、その事実を両親は隠していたようですが、本人は知っていたそうです。甘えたいけど甘えられない・・・そんなジレンマを抱えていたと思います。両親の心の痛みも、自分の心の痛みも、両方を敏感に感じながら、人を感動させる歌詞を生み出してきたのかなと、改めて感じます。

彼の人生は
まさしく数字どおり、「創造と破壊」を繰り返しながらも、現実社会で、新たな視点を提示し、偉業を成し遂げてきたと思います。
私にとって「ヒーラー清志郎」。
彼の音楽と歌声は、みんなを元気にしてくれる「ヒーリング」そのものではないかなと思います。


★運命数(この世における使命や目的)は、本名:12-3 芸名:16-7

本名からも、3の数字があり、アートの才能がみられます。小さいころから漫画を描いていたということで、絵の才能もずば抜けていたようです。ミュージャンから素顔の清志郎に戻っても、絵本を出版したり、サイクリングなどの趣味に徹底的に打ち込むなど、子供のような好奇心で様々なことを挑戦していました。

芸名は7。ステージに立つと、奇抜な衣装と化粧で、場を盛り上げ、歌で感動させるエンターテイナーでした。7という音楽の追求に対してのマニアックさ、独創性もあり、皮肉を込めた歌詞もあったりと、つねに冷静に分析しながら、自分や世の中をみていたようです。霊的な感覚もすぐれ、詩や曲は丑三つ時に、天から下りてくることも多かったと語っています。16の要素の真理の探究とうテーマからか、年齢を重ねるごとに、普遍的な愛を、曲から感じることもありました。



★実現数(人生での可能性や実現性)は、本名:7 芸名:11-2

本名からの7では、音楽という表現で、人と人がつながり、幸せになるという素晴らしい仕事を成し遂げられました。からにこもりがちな性格も、音楽により開放することで、自信につながり、徐々に心の壁を取り払っていったと思います。

芸名からの11-2では、音楽がベースとなり、メッセージ性のある言葉選びにも、自分の霊性や創造性を発揮して、日本から世界の平和や調和、愛をつねに歌い続けてきました。自分一人ではなく、バンドマンとして、調和を大切に音楽活動も行ってきました。夢追い人で終わらず地に足のついた行動は、ファンだけなく、音楽業界も含めた現実社会でも、確実に認められていたはずです。


★ソウル数(価値観や内なる動機・行動の基準となるもの)本名&芸名:11-2

本名も芸名も同じでした。「11-2」。
バンドでもリーダーとしてではなく、みんなが同じお給料で、調和を大切にしていたそうです。
「2」調和とバランスの要素がとても強い人だなと感じました。なのでたぶん、「生涯バンドマンでいたい」と語っていたのだと感じます。映像でみると過激な様子もありますが、シャイで繊細な人でした。化粧するのは、シャイな自分から「忌野清志郎」に変わるためだったという話も聞いたことがあります。
オリジナリティの音楽に自信はあったものの、世間で認められるには、時間もかかりました。
心の揺らぎの中でも突き進めたのは、周りとの協力的な姿勢があったからだと思います。
繊細な感性は、現実社会では理不尽なことも多々あったと思いますが、音楽で精神性を昇華させていく努力を生涯されていたと思います。


★人格数(他者の目に映る印象や雰囲気)本名:10-1 芸名:5

本名は10をもっています。高校生の頃、母親が「息子が音楽に夢中になっていって、将来が心配です」と新聞の人生相談に投書し、それが新聞に掲載されたことがあるという話は有名です。
そんな中で、反対されながらも、自分の直感や感性を信じ、ピュアに積極的に行動し、突き進んでいきました。親から独立し、やるべき使命を全うした姿は、「10-1」の霊的な創造性をまさしく発揮したものだと思います。

芸名は5。自由で多才で革新的なイメージ。予想不可能なひょうひょうとしたイメージ。
どちらもステージの清志郎そのものが数字に表れていると思います。




★ステージ数(活躍の舞台・仕事)本名:9 芸名:12-3

本名では9。様々な実体験をもとに、人類愛や博愛精神を大切にし、芸術性を活かして、人々を導いていく使命があり、芸名は3で、音楽や絵の才能を活かして、人々に喜びを与えていくのが、活躍できる舞台となります。どちらも清志郎が実践してきたことかなと思います。



★チャレンジ数(今回のチャレンジ)本名:5 芸名:5

どちらも5。既存の価値観に縛られることなく、生まれ育った家族との関係、仕事として選んだ音楽、精神的にも肉体的にも、浮き沈みを経験しながら、自分のやりたい真実の音楽をつねに追求してきました。バッシングも多々あったかと思いますが、それに屈することなく、一つ一つ積み上げて、真の自由をつかんでいったと思います。



★Nature数(自然な雰囲気)本名:14-5 芸名:8

ひょうひょうとしているけど、カリスマ性がある感じはぴったりです。



★Action数(行動パターン)本名:4 芸名:2

一発屋ではなく、確実に自分のやりたい音楽での実績を積み重ねていき、だけど威張らずに協調性を大切にする人でした。






【 HISTORY】 

参考文献
『ロックで独立する方法』(忌野清志郎、太田出版)
『忌野旅日記』(忌野清志郎、新潮文庫)
『瀕死の双六問屋』(忌野清志郎、小学館文庫)
『Rockin’ on Japan特別号 忌野清志郎1951-2009』
『忌野清志郎が聴こえる 愛しあってるかい』(神山典士、アスコム)
『文藝別冊 忌野清志郎デビュー40周年記念号』(河出書房新社)
ウィキペディア
スポニチアネックス
朝日新聞コラム
徹子の部屋



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★0歳(year number 22-4)

東京都中野区に誕生します。


★3歳(year number 16-7)開放・内省

実母の死により、伯母夫妻に養子として迎えられたそうです。

清志郎は子どものころから、自分が養子であることを知っていて、親がそれを自分に告げないでいることも知っていたと、のちに語っています。彼の言葉によれば、「孤独に耐える術を身に着けた」子供時代だったそうです。



大きな変化は

★19歳(year number 23-5)変化

フォークグループ「RCサクセション」として「宝くじは買わない」でデビュー。


清志郎少年は、学校に馴染めず、かと言って不良でもなく、物静かな少年だでしたが、
中学・高校時代から、エレキやフォークブームに刺激を受け、
同級生でバンドを結成し、オーディション番組に多数出場していました。
番組で合格したのをきっかけにレコード会社と契約。
はじめは、アコースティック系のバンドとしてデビューしました。

数秘的にみると、year numberの二桁が、なんと42歳まで続いています。
ソロ活動ではなく、一人より三人、四人の、誰かと調和やバランスをとっていくバンドマン志向が、ここからも伺えます。

小さいころから絵の才能もありました。高校時代には、未来の自分たちのバンドの活動を、ノート一冊の漫画に描いて、オールナイトニッポンに送って、番組で紹介してもらおうと試みたらしいですが、失敗に終わりました。



★21歳(year number 25-7)開放

「僕の好きな先生」がヒットします。

音楽人生のステージアップはあったものの、その後ヒットが続きませんでした。
ヒットした曲は正攻法ではなく、イロモノ的だったと本で語っています。売れる曲と作りたい曲のギャップ・・・その後の曲作りのイメージでかなり悩んだそうです。そんな葛藤の中で、バンドとしても低迷期が続きました。



★25歳(year number 20-2)調整

事務所移籍。移籍と同時に発売しようと企んでいたアルバムが、契約条件のためにお蔵入りに。

契約が切れた後の1年間はレコードが出せないということで、レコードも出せず、バンド活動もままならずで、バンドの方向性を見直すことになりました。「個人と共同体」のジレンマに。仲良しの友達同士から始まったバンドマンのターニングポイントを迎えることになりました。


★26歳(year number 21-3)創造

メンバーの脱退の後、さして面識もなかった売れっ子ギタリストにより、ロックの新生RCへ。

偶然なのか、必然なのか・・メンバーが抜けて途方にくれていたとき、彗星のごとくあらわれたのが、RCのファンでもあった売れっ子ギタリストの春日さんという男性でした。彼のアドバイスやギタリストとしてのバンドへの参加により、ロックとしてのRCの原型が確立されていきました。高校時代に描いた漫画の通りの「夢のバンド」に近づいていったようです。曲にも新たな表現力が生みだされ、今までにない作品となっていきました。


★29歳(year number 24-6)調和

「雨あがりの夜空に」やアルバム『RHAPSODY』のヒットで、メディアの寵児に。

メンバーの脱退や加入を繰り返しながらも、低迷期に蓄えていた曲など、本当に自分のやりたい音楽が形になり、精力的にライブ活動を展開していきました。ライブでの人気も高まり、世間一般にRCサクセションの忌野清志郎が認知され始めました。ミック・ジャガーなどの影響でメイクを始めたり、パンクファッションにしたりと、一度見たら忘れられない、清志郎ファッションも確立されていきました。



★31歳(year number 26-8)繁栄

坂本龍一とのコラボ「いけないルージュマジック」でRC以外のユニット活動も。

テレビのCMにもなった「いけないルージュマジック」のユニット活動は、忌野清志郎の認知度をさらにアップしていきました。万人受けするとは言えないまでも、強烈な印象でお茶の間を賑わせていたのは確かです。



★34歳(year number 20-2)調整

事務所独立。その反面、個々のソロ活動が多くなり、バンド活動が低迷する。

数秘的にもセカンドサイクルに入り、「4」の安定から「2」の調整やバランスになったころです。pinnacleが9でchallengeが5なので、音楽やバンドとしての完成形に向けても、必要なことと不必要なことを取捨選択していき、その変化を受け入れるサイクルになっています。

実際に、自分たちの事務所を作って自由度をましたかのようで、バンド的には不協和音が発生していたようです。一つの目標をみんなが目指していた時代から、それぞれの方向性が変化していき、新たな道を模索していた時のようです。



★37歳(year number 23-5)変化

養父母の死をきっかけに、実の両親や弟のことを知る。

養母の死をきっかけに、養父が実の子ではないことを教えてくれたと清志郎は語っていますが、養子であることは小さい頃から知っていました。その養父の死をきっかけに、親戚の方から、実のご両親のアルバムや手紙などを初めて渡されたそうです。実の父は、弟だけをひきとって別れたことや、母親の写真、母親が歌が上手くてみんなをいつも笑わせいたことなど・・まさしく母の様子は清志郎そのものでした。それから、いつも母の写真をポケットにしまって持ち歩いていたそうです。長年の謎を知り、涙を流し浄化していくことで、今までとは違う心の変化がおきていったのは間違いありません。それは、曲作りにも大きく影響していきました。


★38歳(year number 24-6)調和

長男「たっぺいくん」の誕生。

30代後半で結婚し、長男が誕生。ライブで替え歌にしながら喜びを表現するなど、親バカぶりも発揮されていたようです。バンド内のメンバーはギクシャクしながらも、year number 6のとおりに私生活ではお喜びごとの年となりました。


★40歳(year number 26-8)繁栄

RCの無期休業宣言。個人事務所設立。

「忌野清志郎のRC」ではなく「RCの忌野清志郎」と常に語っていました。
ゴタゴタからの解放感があったとはいえ、この休業は、清志郎自身の一部だったRCがなくなり、ぽっかり大穴が空いた大失恋気分だったそうです。解散後の一年はとても新しいバンドを始める気分にはなれなかったとのことです。

過去から独立する機会にはなったようです。心の痛みはあったものの、繁栄の8、無限大の8のサイクルであることもあり、これからのステージの広がりが予想されました。


★43歳(year number 2)調整

俳優活動に挑戦。映画「119」の音楽を担当。新たな分野に挑戦。

year numberがはじめて一桁になった年は、役者や映画音楽という今までにない分野での仕事を積極的に広げていきました。これをきっかけに、様々な芸術の分野で表現をはじめています。



★44歳(year number 3)創造

映画『119』に音楽監督として参加し、第18回日本アカデミー賞で最優秀音楽賞を受賞。

RCサクセションの解散以降、前にも増してさまざまなバンド・ユニットを渡り歩き、その時の自分の気分に合った曲を作り続けてきました。活動の場は広がり、映画の音楽をはじめ、CMソング、時には絵本作家として、時には役者として、清志郎の個性を様々な分野で、楽しみながら発揮していた時代だったと思います。




★55歳(year number 5)変化

音楽の聖地「メンフィス」でアルバム「夢助」をレコーディング。
その2ヶ月後に喉頭癌で入院することを発表し、すべての音楽活動を休止。


メンフィスのキングオブソウル「オーティス・レディング」。
清志郎が、最も影響を受けたミュージシャンの一人だそうです。
その聖地でアルバム『夢助』をレコーディング。
新たな始まりを予感させました。
しかし、その発売をまたずに、喉頭癌がみつかり、入院治療を余儀なくされました。
癌の摘出をすると声が出なくなると宣告されたことから、手術はしないで治す方法を選んだと聞いています。
その決断は、最後まで、うたを歌い続ける覚悟だった、彼の強い思いを感じることができます。


★56歳(year number 6)調和・完全

日本武道館にて『忌野清志郎 完全復活祭』を開催し、本格的に活動を再開。

日本中のファンが待ち受けていた復活祭。清志郎の歌声は変わっていませんでした。
サイクル6が表すように、愛を学び、愛を与え、すべてを、あるがままを愛することを教えてくれる愛と調和のライブだったと思います。



★57歳(year number 7)開放・信頼

転移のため、ライブ活動を休止。

治療に専念しながら楽曲提供、ライブの飛び入り参加など、音楽活動も再開。ライブ活動はお休みしていましたが、精力的にできる限りの音楽活動を行っていました。まわりの存在を信頼し、今という時間を大切にして、精一杯生きていたと思います。


★58歳(year number 8)達成

2009年3月に体調不良で入院。5月2日に58歳の人生の幕を閉じ、天へと旅立たれました。

青山葬儀所でファンなどを対象にしたロック葬が行われ、弔問数は4万3000人に及んだそうです。

本人いわく、闘病後の復活祭では、「椅子にすわって地味に復活するのかと思ってたけど、バンドに戻れて本当に幸せだぜ!」とステージで声をはりあげてくれました。まだまだやりたいことはいっぱいあったかと思いますが、生涯ソロミュージャンではなく、バンドマンにこだわり、バンドマンを全うしたことは、彼にとっては本当に幸せだったと思います。



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最後に、
派手なようで地味な人だった、そんな清志郎の58年の人生は、つらいことも寂しいこともたくさんあったかと思いますが、誰に対しても平等で優しさにあふれた愛は、いつも私たちの心を明るく照らしてくれました。

歌と声で表現される彼のパフォーマンスは、日本を、世界を平和にしてくれるものだと思います。
永遠に私たちの心に生き続けるでしょう。



清志郎、たくさんの愛をありがとう!
「愛してます!!!!!」



清志郎の歌声をお聞きください
https://mojim.net/jp_video_u2_QnKykvIp4Yg.html?h=111911x7x11



reported by Moco
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by kej000 | 2016-07-25 21:08 | 数秘レポート