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堀江貴文という「人」 〜数秘基礎科卒業レポートより

数秘学・基礎科の生徒さんによるレポート。

今回は、ほりえもんの愛称で、ニュースやエディトリアルで著名な堀江貴文さんです。

彼の知られざる側面をよく現したレポートとなっています。


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Takafumi Horie

堀江貴文 

19721029

 

 

Personality

 

◎基本となる誕生数(Birth path number

 深層意識を暗示し、「生まれ持った資質、性格、個性」加えて「生きる姿勢や才能、

その人の潜在能力」など普遍的な特質を表す。


224番。

22」番は、マスタービルダーと言われ、スピリチュアリティに目覚めることにより、その資質を存分に開花させて生きられるようになると、卓越した才能を発揮し、現実社会においては大きな事業を成し遂げていくことが出来るとされています。

現実的な面と強い感受性を併せ持ち、本来、右脳と左脳とバランスをとることが出来る人です。

彼の場合は、逮捕や懲役といった体験を通して、スピリチュアリティを深め、それまでには世間に見せることのなかった本当の自分をさらけだしていくようになっています。そのことにより、今後は今までよりも周りの理解を得ることが出来、事業を大きく成長させていくことが可能になっていくでしょう。


逮捕前は、「22」番のアマチュアで、単なる現実主義者とみられたり、自分自身で敵を多く作ってしまったりして、波乱に満ちた苦労の多い人生を送っていたといえます。

また、「4」番のアマチュアで、頑固で冷淡、独裁的とも世間からみられていたのではないでしょうか。

そんなふうに、生まれ持った創造性を発揮出来ず、虚無的になってしまうと、「22」のパワーはどんどん薄れていき、単なる「4」番として生きることになってしまいます。そうなると、爆発的なパワーは発揮されず、とてももったいないのです。


しかし、「22」番を最終的に体現できるかどうかは別にしても、彼は今までのところ、「22」番に向かって、着実に歩み続けているといえるのではないでしょうか。命をかけて育てた会社を失い、全てを失ったゼロの自分の状態をすがすがしいと感じ、未来には希望しかないと語ることが出来るのですから。

 


◎運命数(Destiny number

 表面意識を暗示し、「人生における使命や目的、何を実現していくべきか」などを告げる

 ナンバー。


112番。


11」番は、頭脳明晰で秀でた洞察力を持つナンバー。理想主義者でもあり、天才的な理能力を持っているとも言われています。人柄としては、良い部分が出ると、豊かな感受性や温厚さが表れ、かつ、バイタリティも発揮されます。また、「11」番は、天と地の橋渡しとも言われ、現実世界と精神世界を結びつけていくことがミッションでもあります。

彼の場合は、仕事という現実を通して、「人類の可能性を拡張する新しいインフラを提供し」、そして精神的な「ワクワクする」未来を一緒につくっていきたい、と語っています。そして、「仕事もお金も喜びも、それを独り占めしたところで心は満たされない。みんなとシェアするからこそ、ほんとうの幸せを実感できるのだ。」と本に書いています。まさに「11」の現れだと私は感じます。

また、小学校1年の時から死への恐怖にさいなまれるという一面があり、仕事に没頭して生を充実させることで、その恐怖を遠ざけるという彼独特の生きる戦略を持っていました。これも、「11」らしいと言えるのではないでしょうか。

また、誕生数に「22」、運命数に「11」を持つ彼は、葛藤の多い人生を送ることも暗示されています。確かにいままでもそうでしたし、これからもそうなのかもしれません。

 

◎上記2つのナンバーから引き出される実現数(Realization number

 今回の人生で実現すべきことや可能性を表す。職業的なことにも関係する。


426番。


6」番は、調和を象徴するナンバーです。真善美や、愛といったものがテーマとなります。

彼の今までの活動をみると、あまりピンとこないような気もしますが、総選挙に立候補して、政治から世の中を変えようと動いたり、刑務所での作業報酬の10倍の金額を、長野の刑務所に入ったのが縁で、長野県北部地震で大被害を受けた栄村に寄付をしていたりするところは、「6」らしいと言えるのではないでしょうか。

また、「6」のキーワードには教育というものもありますが、彼の場合、本の執筆、メルマガで読者からの質問や相談に答えること、ブログ記事やツイッターを投稿することなどが、教育の分野で活躍しているといえます。


また、「6」は自己回帰を象徴していますが、著書「ゼロ」に、「信用の「ゼロからイチ」は、まず自分で自分を信じるところかはじまる。あなたは自分を信じているだろうか?」とあります。彼自身が自分を信じる姿を愚直に世の中に示し続けること。何があっても、誰がなんと言っても、自分が自分を信じ続けること。これこそが、彼が今世で実現すべきことなのかもしれません。


また、私が「6」としてとても気になるもの、それは彼が育った家庭環境です。彼の両親は共働きで、授業参観にも一度も来たことがないような家庭だったそうです。自分の生い立ちについて「僕は寂しかった。家庭の温もりがほしかった。兄弟もほしかったし、明るい笑顔がほしかった。けれど、その言葉はぐっと飲み込むしかなかったのだ。」と書いています。また、彼は離婚した時のことについても「率直に言って、温かい家庭がどういうものなのか、なにをどうすれば一家団欒ができるのか、みんなどうやって良きパパ、良きママになるのか、僕はいまだにわからない。」とあります。


彼が自己回帰をしたうえで、温かい家庭を築くこと。そして愛とは何かを知ること。その愛の中に生きること。私は、それが、彼が今世で最も実現すべきことなのではないかと思えてなりません。

 


◎ソウル数(Soul number

 その人の「魂の欲求」を暗示。一番大切な価値観や内なる声を表す。


7番。


上記までのナンバーは、パワフルな面が多く出ていましたが、ここでは一転して、彼の平和的、探求心、精神性、物静かな一面といった面が感じられます。


彼の著書「ゼロ」によると、独創的な分析力と直観力から導き出した考えに、真面目にひたむきに、そのことに「ハマった」状態で取り組むことにより、成果をあげてきたと書かれています。この、何かに「ハマる」ことによって、精神の平穏を保ってきたことが、著書からうかがえることが面白いです。

7」のアマチュアの要素としては、無類の寂しがり屋であること、また、世の中の不合理に対して反逆したりして、それが世間からみると不謹慎にみえていたようです。彼はただ、世の中の空気を良い方に変えたいだけだったようですが・・・。

 


◎人格数(Personal number

その人の社会的な仮面(ペルソナ)を暗示。その人が気づかないうちに身につけて

しまった第一印象、他社の目に映るその人の表面的人格。


4番。


噂ではなく、彼が実際に積み重ねてきたものだけをみると、真面目、勤勉、現実的で冷静沈着、終始一貫といったところが当てはまります。そして、会社という組織を作ってきたことは、まさに「4」ですね。

同時に、「4」のアマチュアである、飽きっぽさについては、彼自身が飽きっぽいと語っています。また、独断的、ワーカホリックといった面も過去、出ていたように見えます。

 


◎ステージナンバー(Stage number) 活躍の舞台。


3番。


始めはインターネットというものを通して、この世界での表現方法や真実の伝え方に影響を与え、そして起業、上場といった成果の開花を成し遂げています。また、本、メルマガ、ブログ記事やツイッターなどにおいて、表現し、人々との交流を広げ続けていますね。

 

Nature number

5番。

自由を何よりも大切な価値観とし、革新を起こし続けている彼の性質をよく表しています。世の中に新しい風を送り込み、変化をもたらす彼。また、理論的分析力、挑戦すること、頭が良い面なども「5」の現れなのでしょう。

 

Action number


1番。


IT革命などでもわかるとおり、彼自身から創造し続けています。決断→行動のサイクルを繰り返し、その中で独立精神を発揮しながら、リーダーとして動いています。

 


Challenge number


2番。


受容することがまさに彼のチャレンジであるナンバー。「22」「11」をメインナンバーに持つ彼だからこそ、調和、協調、受容、バランスといったことを学んでいくことが、何よりも大切であり必要なことなのですね。

 


その他、堀江氏のチャートで際立っているのは、

CreationSupportBody5」です。これらの性質を発揮する時に、本来、状況に応じて柔軟に対応できる人です。

 

 

History

 

若年期(youth number) 月数。大体9歳くらいまでの幼少期を表す。

1番。

小さい頃から頭が切れ、独立心が旺盛な子供だったようです。一匹狼の雰囲気があり、自己中心的と周りには捉えられていたとのこと。

 

12歳 19854月 (year number 7

久留米大学附設中学校・高等学校に入学。初めてのパソコンを購入。

中学2年の時には親に借金をして本格的なパソコンを購入(year number 8)。

かなり複雑なプログラムを組めるようになっていったそう。当時、彼が通っていた全教研の英語スクールでも、授業そっちのけでパソコンに熱中。あるとき塾講師からの依頼を受け、塾のコンピュータの教材システムの移植作業を一人で行ったこともあるそうです。

12歳の「7」の年に新しい世界で生き始めたことが、後々の起業や仕事での活躍の、全ての種になっているともいえます。

 

18歳 19914月 (year number 134

東京大学教養学部文科三類に合格・入学。ギリギリまで合格は無理と思われていたが、「ここから抜け出す!」という決意の元、戦略をたて、猛勉強をして合格。ここで人生の基盤を作った(創造した)のですね。

 

20歳 19934月 (year number 6

同文学部宗教学・宗教史学専修課程に進学。現実に幻滅し理系転向をやめたそうですが、そこで宗教学に進むところがSoul number に「7」を持っている彼らしいです。

 

21歳 1994年 (year number 7

プログラマーとして働きはじめる。この分野にのめりこみ、極めていくことで、後に会社設立まで飛躍していくことになる。

7」の年にスタートしたということで、流れにスムーズに乗れたといえます。

 

22歳 199412月 (year number 8

プログラマーとして働く中、インターネットと出会う。彼が圧倒的な自由、無限の可能性を感じ、他のものが何も目に入らないくらいの情熱が湧いたもの、それがインターネット。ここで彼の持つ実現数「8」と共にyear numberも「8」と重なり、彼のバイタイティー、成功を目指しながら進む実行力が発揮され、社会を変えていくようなIT革命の先駆者として、活躍していくのです。

 

23歳 19964月 (year number 9

有限会社オン・ザ・エッヂを設立。

東大一年の時に迎えた誕生日から始まる「5」のサイクルが、この年に「9」となって、会社設立という一つの完成を迎えたことになります。

 

27歳 1999年 (year number 134

結婚。一児の父となる。

だが、著書「ゼロ」によると、上場を控え、多忙を極めていて、また上場の是非をめぐって創業メンバーとの間に激しい対立が生じていた時期で、肉体的にも精神的にも疲れ果てていた、とあります。本に「癒しを求めていたのだろう、なんとなく知り合った女性となんとなくの流れで付き合い、なんとなくの流れで結婚した。」と書いています。結婚に関しては、プロセスを怠ってしまったことにより、後の離婚につながるのだと思われます。

また、「13」は破壊と創造を象徴し、一切の執着を捨てて新しく再生出来るチャンスでもあります。創業メンバーとの対立、また多くのエース級の社員が去っていったことは、まさに破壊そのものでもあるのでしょう。

 

27歳 20004月 (year number 134

東証マザーズ上場。

上記のとおり創業メンバーとの対立などを経て、新たな創造である上場を実現しています。

29歳 2001年 (year number 6

離婚。

まさに「6」というnumberが示すとおり、離婚という家族絡みの問題に直面することで、内面の強さを養う時期。彼も、最終的に「逃げることをやめて、この孤独と正面から向き合おうと決めた」と本に記しています。

 

31歳 20046月 (year number 8

当時の近鉄バッファローズ買収に名乗りを上げるが、申し出を拒否される。

パワーのコントロールやバランスが上手くいっていなかった現れだともいえますね。

 

32歳 20052月 (year number 9

社長を務めるライブドアはニッポン放送の株35%取得、同社最大株主となる。その後2/21の時点でニッポン放送株を40.1%取得。

また、8月には衆議院の解散にともなう総選挙に立候補するが落選。

彼がやりたかったことは、この国のネガティブな空気を変えていくことでした。「9」が示す、全体意識、正義感、変容といったものが、上記の出来事という現象に出ています。

 

33歳 20061月 (year number 101

1/23 証券取引法違反容疑により逮捕される。(風説の流布、偽計取引、有価証券報告書の虚偽記載)

10」は、再誕生の番号であるとも言われ、逮捕という一見、ものすごくネガティブな出来事ではありますが、より人道的な人生へと、彼自身の生き方が変わっていくきっかけになったともいえるでしょう。それは、実は、もともとの彼は真面目で繊細で不器用で傷つきやすく、人とつながり人を笑顔にしたい、という人で、今までの生き方や表現方法では、それをしてくことは難しいということを学び、本来の自分として再誕生することで、彼の言葉を借りれば、「人を笑顔にしていく、矛盾だらけ、不合理だらけな世界を少しでも明るく楽しい場所にしていく」というビジョンを自分だけでなく、世の中に対しても明らかにし、そこへ向かっていくのです。

 

38歳 20114月 (year number 156

4/26 最高裁(第三小法廷)は上告を棄却。懲役26か月の実刑判決が確定。

6/20、モヒカン頭で東京高等検察庁に出頭し、東京拘置所に収監される。

6/30、長野刑務所へ移送される。

33歳でyear number10」を迎えてから、11121314と二桁波動の時期を裁判で過ごし、ここで実刑が確定し、刑務所に入ります。そして、この「15」で「6」からはじまった、調和を学ぶ旅が一つの区切りを迎えることになったのでした。

 

40歳 20133月 (year number 8

3/27、仮釈放。(刑期の74%

year number7」の時期を刑務所にて過ごし、まさに世俗から離脱した状態で内省の日々を重ね、本来の自分を感じていたのですね。そして、たくさんの本を読むこと、刑務所での生活を通して、さらに精神的な学びを深めていった時期だともいえます。

そうして、year number8」を迎え、出所し、また現実社会の中で活躍の場を広げていったのですね。

 

41歳 201311月 (year number 9) 

11/1、「ゼロ―なにもない自分に小さなイチを足していく」出版。

11/10、刑期満了。

ここでまた、一つの完了を迎えることになりました。著書「ゼロ」においても、いままである意味、メディアが報道する「ホリエモン」を演じてきた彼が、ありのままの自分を語り、表現することで、本来の彼自身に戻っていったかのようでした。

 


33歳で逮捕されてから41歳現在までのChallenge number が「1」、Pinnacle numberが「3」です。

Challenge number1」としては、彼がどう生きていきたいのかを改めて問われた時期、そしてまた、人も自分自身も信じぬけるか、そして創造し続けることが出来るかどうか、ということに向きあい続けた時期だったのではないかと思います。


Pinnacle number3」としては、人とのつながりの価値を味わう時期、そして、自分自身を理性でコントロールするだけでなく、自分の感情や本来の自分のエネルギーを解放し、彼にとって何が喜びであるのか、を見つめる時期であったのだと思います。


彼にとっての喜びは、「働くことで仲間たちとつながり、みんなと笑顔をわかちあう」ことだったのです。

また、Cycle number31歳から50歳までは「2」です。人との協調性を学んだり、人との境界線を保ったり、また、同時に自分自身をさらに探求していく旅の最中だといえるのではないでしょうか。

彼が著書「ゼロ」の中で語っていることは、


「刑務所に入って唯一変わったのは、コミュニケーションに対する考え方である。

理詰めの言葉だけでは納得してもらえないし、あらぬ誤解を生んでしまう。

そればかりか、ときには誰かを傷つけることだってある。僕の考えを理解してもらうためには、まず「堀江貴文という人間」を理解し、受け入れてもらわなければならない。

言葉を尽くして丁寧に説明しなければならない。その認識が完全に抜け落ち、多くの誤解を招いてきた。

これは最大の反省点である。」


この文章が、Cycle number2」を、とてもよく表していると私は思います。




東京クラス・Megumi Kawamaさんのレポートでした


by kej000 | 2014-03-14 13:41 | おもしろ数秘学

ユングに捧ぐ 〜数秘基礎科生徒さまの卒業レポートより

アイオンズ数秘学・基礎科 卒業課題レポートの2作目は かの「ユング」です。とても濃密で、そしてリーダーの思いの伝わるレポートです。 

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Carl Gustav Jung 
カール・グスタフ・ユング 
1875.7.26 ~ 1961.6.6 

  まず基本となる誕生数から見ていきます。
Birth number は {#9} 
 {#9}は自然数の総てであり「苦」を表し、 揺れやすく、不安定であり複雑な性格が出やすいナンバーですが、 幼少期から青年期にかけて、己の内心の二面性に直面して揺るいだユングにこれは当て嵌まります。 けれども、{#9}は完璧や完成、真理の数字とも言われ、他に全体意識、人類愛、寛容、博愛、正義感、変容などの意味があり、お金、地位、名誉に加えて博愛を表す数字でもあります。冥界や魔術、知性との関連もある数字ですが、 オカルトや宗教、自然科学における真理、人間の心・無意識・魂について飽くなき探求心を示し研究を続け、確かな形として後世に残るものを作り上げたユングは、そのどれもに当て嵌まる生涯を送り、功績を残したと言えるでしょう。  

何より、{#9}における課題である{愛と理解力を持って実践される人類愛}は、ユングが精神病治療における患者との在り方に表れています。今に至っても揺るぎなく確立されているユング心理療法とは、患者を”一人の人間として”、治療者と患者が対等に向き合おうとする在り方からなります。”対話”が治療の糸口になるとして、特に”治療者と患者の対等な対話”を大事にし、そして、”治療者と患者の相互作用”、つまりは、”治療者と患者双方の反応を積み重ねることによって、新しい発見や、真実に近づくこと…、お互いを高め合い深め合っていく等の過程”を非常に大事にしました。 そして、同じく精神病治療者であったフロイトと明確に違う点は、あくまで治療者は患者を治療するだけという上の立場から患者を見ているものであるという対面方法もありますが、フロイトが週に4、5回カウンセリングを行うのに対し、ユングは週に2、3回のカウンセリングをするに留めていた点もあります。これは、患者が、自分自身と対話する時間を多く持たせることが狙いであり、患者自身が、自分自身で問題を解決する力を身に付けさせようとするものでした。

 「心理療法は人間の数ほど多様なもの」。 ユング自身の経験からをれを知っていた彼は、だからこそ限定的な考えを好まず、患者一人一人との”対話”を大事にし、 確かな愛と理解力を持って、クライアントと接していたのです。 次に運命数(Destiny number)を見ていきます。 


運命数は{#50-5}
 {#0}がつくことから、彼は人生の後半から霊的なインスピレーション、直観、洞察力を発揮していくことになります。実際に、彼の人生の後半における”曼荼羅”の発見や、ユング独自の”錬金術に心の統合を重ねる”研究とその完成は、霊的な感性がなければ出来なかったと言えるものです。 また、{#5}を運命数に持つ人物は、知的分野で新しさを切り開く仕事が当て嵌まりますが、まさに、ユングは精神医学という知的な分野で、新しい心理学論を切り開いていった人物です。 

 そしてまた、 誕生数の解説から、ユングには繊細で不安定で複雑といったイメージが持たれたかもしれませんが、 その実、そもそも{#5}の持つ性格にあるように、好奇心が旺盛だからこそ様々なことに興味を持ち、その研究対象は東洋西洋を問わず、ユングはその地に旅行して赴いてまで実際を目の当たりにし研究しています。 学生時代には積極的に学生運動に参加しては、巧みな会話術で人を惹きつけたという記録もあります。 ユングは患者との恋愛事情も有名であり、圧倒的に女性の弟子も多く、弟子たちの中では師であるユングを巡る三角関係的な争いが多くみられたといいます。 

{#9}の繊細で優しい面と、{#5}の好奇心旺盛で魅力的な面を持つユングは、女性にとって、母性本能をくすぐるような、今でいう密かなアイドルのような人物だったかもしれません。 次に、誕生数と運命数から引き出される、彼の人生での可能性を見ていきます。 


 実現数(Rerlization number)は{#14-5}
{#5}における人生の可能性は”自由”であり、”柔軟”に、形に囚われることなく人生を開拓していくことが課題です。 そしてカルミックナンバーである{#14}のテーマは、”本当の自由とは何か?”を学ぶことにあります。 

{#14}は、”両極”を体験する番号でもあり、密教でいえば、”空”と”色”の両極を体験し学ぶことで、それらの統合を試みる番号でもあります。 以上をユングに当て嵌めた場合、 形に囚われることを嫌ったユングの精神治療法や、東洋仏教や西洋の錬金術といったものからも心理学を追求した姿に{#5}の実現数を見ることが出来ます。 両極を体験する、というカルミックナンバーについては、幼少期からの”無意識”への試みと、それを”心理学論”として現実的に打ち出していったところに見られるのではないかと思われます。
 他に、ユング自身、当初はそれと知らずに描いていた”曼荼羅”に、内面的・精神的な心の”統合”があるという気付きを自ら得ています。

ソウル(Soul number{#8}
{#8}は成功する為に生まれてきた人が持つ数字であり、アクティブでエネルギッシュな数字です。
 野心的であり、地位や名誉を得るという数字でもありますが、ロマンチストで夢想家、直観力があり、努力によって思慮深くもなり、革命的で向上心のある数字です。極端であったり、権威主義であったり、独裁的で支配欲があり、人を見下してしまうという面も出やすくはありますが、良い面を見ていけばとても良い数字です。 ユングは貧乏な家庭に生まれたことを後々に知って衝撃を受けることになりますが、めげずに、まっすぐに、自分の道を突き進んでいきました。 そこには、偉大であった祖父を尊敬し、父に対しては失望…つまり見下していた部分があったわけですから、内心で、父のようにはならない、祖父のように”成功”するのだという強い思いがあったかもしれません。 

ユングは後に出会うフロイトに父のような憧れを抱いていますが、それも、ユングが求めていた父親像は、やはり、尊敬出来て、偉大で、自分に自信のある知的な人物だったということ表れなのでしょう。 そして、{#8}の課題、”不可能への挑戦と開拓”を、ユングは確かに果たしていきました。


 人格数(Personal number)は{#6}
{#6}のパーソナリティは、堅実で保守的、優しくて親身、家族思い、派手ではないのにモテる人、とあります。 Historyでも触れていきますが、 裕福でない家庭に生まれ、不仲な両親の元で幼少期を孤独に育ち、それでも家族を見放すことなく、 家族を思い、父が亡くなれば自分が家族を養い、そして、優しくて親身な精神科医であり、派手ではないのに女性にモテる。ユングにぴったりだと思ってしまうのは仕方がありません。


ステージナンバー(Stage number)は{#12-3}
 ユングの活躍の舞台は、{#3}でいう”知性”と”表現”の中にありました。 ”人々に未知の光を投げかけること”。「集合無意識」や「タイプ論」、「シンクロニシティ」、「宗教と心理学」、「錬金術と心理学」「空飛ぶ円盤」など…心理学という舞台の中で彼は確かに、未知なるもの発見しては、人々に示していったと言えます。 そして{#12}は、コラボレーションの数字です。”蜜月の時”と言われた、フロイトとの共同研究の期間や、後に脱退することもありましたが、数ある学会の設立、クラブの設立であったり、後年に他の学者と共同で著書を発行するなど、確かに、ユングは生涯に渡り、何かしらのコラボレーションを行ってきました。弟子も多くいましたしね。その後継者も実績を残しています。 ユングの成功と名声も、それを評価した後ろ盾ともいえる人物の存在が大きかったからだと記されるものもあります。(後に記述。) 


Nature {#9} 誕生数と同じ{#9}
根っからの{#9}の人だと言えます。揺れやすく、繊細だけれども、慈悲心の強い人なのだなとわかります。 *Action {#3} アクションは{#3}です。子供っぽいところがあるということでしょうか。表現する、ということに長けていたこともありますが、遊び心のある人だったのかもしれません、ユングの記録には共同で研究した人や、友人も多く見られます。 


Challenge {#33-6} 
{#33}は、生きている間に到達できない数字と言います。{#3}が二つ並ぶことから、”創造”が強く関わってきます。そして、{#6}でもあるので、その”創造”は”献身的な愛”の為に使うことになります。後に記述していきますが、ユング心理学を確立したユングは、生涯に渡り、博愛精神のもと、人々への献身的な愛のもと、”創造”を示していったと言えるでしょう。 次に、チャートを見ていきます。

 Balance は 0 であり、中庸で、良いバランスがとれていたことになります。 ユングのチャートの中で気になるのは、
*Creation 1、 という点。 これは、創造性について、オリジナルのものを持っているということになります。ユングは独自の心理学を確立しました。後にも書きますが、”石の塔”を自ら作るなど、確かに、オリジナルのクリエイティヴィティを持っていたと言えます。
 *Support 1、という点。 
これについても、彼はそれまでの精神治療の患者との在り方、”あくまで治療者は治療してあげる立場であり患者は受けるだけ”、というものから、”人として患者と対等に向かい合う”という方法を確立していったことから、独自の方法で人をサポートしたのだということが言えます。 
*Body 1、という点。 ユングはボディヒーリングの才能もあったようです。それと知らずに曼荼羅を描きつづけ、自らを癒していた、ということもありました。母の死を切っ掛けに石の塔を建設し、そこに籠ることで、現実から遮断され、”まるで母親の母胎に還る”ことで自らを癒した、という体験がユングにはありますが、それも独特の思い付きからくる癒しの行動でしょう。 
*他、全てが4。 ユングは、真面目で、こつこつと努力することによって成長していったタイプと言えるのでしょうか。


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Histroy

Cycle Number 0~27歳 #7
Pinnacle Number 0~27歳 #6 

 『幼少期~青年期』 

 ユングを語るにはこの若年期が欠かせないことであり、 ここでのCycleナンバー#7の後に続く#8の為の、大事な下積みがこの時期にあったと言えます。

 ★<1875年 Year Cycle #2サイクルの中の #18-9 0歳>  
1875年7月26日、ユングはスイス北部のトゥルガウ州ボーデン湖畔のスケヴィルという小さな村の牧師館に生まれ、4歳まで牧師館や古城、農場、アルプスの峰々に囲まれて育ちました。 ユングには兄と妹がいますが、兄は生まれてから早期で亡くなり、妹は9歳年下であったため、実質、彼は幼少期を一人っ子として過ごしています。 

 ★<1879年 Year Cycle #2サイクルの中の #13-4 4歳>
この歳までスイスの文化、風土(多民族・多言語)の中で過ごします。 この中で過ごした経験も、ユングに大きな影響を与えていると書く人もいます。 多民族・多言語の国家体制を維持するには多くの苦労があり、長い内戦の歴史がありました。 その環境が幼いユングに与える影響は計り知れず、実際に、ユングは「神がいるのなら、なぜこの世にはこれほど恐ろしいことが満ちてるのか」と、神について、特に、神の善と悪の面について疑問を抱くようになります。 この頃、サイクルとしては、1877年から始まる{#2サイクルの中の#13-4}となり、幼少期は、ユングにとって人間関係について学ぶ大事な時期であったとも言えますし、サイキック的な感受性もこの頃あったと言えます。 また、ユングの両親は不仲であり、家政婦はいましたが、彼は一人で孤独に過ごしていたようです。 この両親もまた曲者…と言ってはなんですが、家系的にも特殊な傾向があり、ユングの27歳までの{ピナクル#6}というのも、この両親の影響があると言えます。 

 ★<1884年 Year Cycle #2サイクルの中の #18-9 9歳>
ユングは9歳までを孤独に過ごします。 いつも一人遊びに夢中で、極端に内向的だったといいます。 その辺りは、{Birth#9}も想起させますが、Dayナンバーからみる子供時代の{#8}のアマチュアである、”極端”という面も表れていたかもしれません。 そしてユングは、「田舎の純朴な少年」とは程遠い、あまり子供らしくない、鋭い感受性を持った子供であったと言います。  また、孤独の中で、ユングは一人遊びに没頭し夢と空想に耽って過ごしながら、この頃、後のユング理論に影響を与えることになる、”人食いの夢”をこの幼少期に見ています。”夢”は、ユング心理学の中でも重要視されおり、”人食いの夢”が無意識からくる潜在的な恐れであると後になって理解することになります。

 ★ユングについて語るには両親の存在が不可欠であるので、両親についても触れていきます。  父のパウルは元々学者志望でしたが、経済的な理由によりその道を諦め、精神病院の礼拝堂牧師を兼ねたプロテスタント牧師となりました。 ユングは、この父を優しいけれども頼りないと思っていたようです。牧師でありながら、幼い頃のユングの神に対しての疑問に満足のいく答えをくれなかった父に対して、やがて不満と失望、怒りを抱くことになりますが、最終的には哀れみを感じるようになります。 この父はユングが21歳の頃に病気で亡くなりますが、その後はユングが、家長として母と妹を養っていくことになりました。その辺りも、ピナクルナンバー6の状況が伺えます。  

また、ユングが生まれた頃には既に他界していましたが、ユングと同じカール・グスタフ・ユングの名を持つ父方の祖父は、医学と自然科学を学んだ後に推薦によって、後に孫のユングが通うことになるバーゼル大学の教授になると学長まで上り詰め、また、孫同様に心の病に関心があったらしく、精神病の子供の為の研究施設を設立するなど、とても偉大な人物でした。当時のフリーメイソン(※)の会員であったり、ゲーテの私生児と噂され、後世にも”伝説的”と記録が残るほどの人物であったようです。ユングはこの祖父を非常に尊敬していましたし、目指す方向性についての影響も大きかったと思われます。    
※フリーメイソン…友愛結社。秘密結社。「自由」、「平等」、「友愛」、「寛容」、「人道」という基本理念がある。宗教に近いが、宗教ではない。「全人類の兄弟愛という理想の現実」「文明というものがもつ真正で最高の理想実現」等を目的としている。慈善活動も行うが、それだけが目的ではない。

 ユングの母エミーリエは、バーゼルでは有名な神学者でヘブライ語学者でもある牧師ザムエル・プライスヴェルクの娘であり、エミーリエとその母、父のザムエルを含め、その家系には霊能力者が多く見られたそうです。 これは、ユングが【生まれつき霊的な特殊な環境にあった】ということであり、 この環境があったからこそ、後に、フロイトが辿り着けず、認めることが出来なかった「集合無意識」や「共時性(シンクロニシティ)」の発見を認めることが出来たのでしょう。  また、この母エミーリエは、温かく陽気な性格の反面、不気味で得体が知れないという両面があったといいます。

こうした母の性格もユングに多大な影響を与えました。 もっとこのエミーリエについて触れていくと、 ユングはお母さん子でしたが、だからといって彼は母に溺愛されて育ったわけではありません。 夫婦仲も悪く、ユングが2、3歳の頃には別居によってエミーリエはユングを一時的に手放しているという説もあり、幼い頃のユングの育つ環境は決して良いものではありませんでした。 

けれどもユングは、母について「動物的な温かさをもち、料理が上手で、人付き合いがよく、陽気だった」と自伝に記しています。そして、「予期しないほど強力であり、反撃の余地のない程の権威を持った、地味で堂々とした人物であった」とも書いています。 この二面性にユングは苦労しており、恐ろしいことを言ったと思えば、数時間後には何事もなかったかのように穏やかな様子に戻る母に対して、ユングは愛情を求めながらも、信頼を失っていったといわれています。 

そして、ユングは、その母の二つの人格の明るい面を「人格NO.1」、権威的で怖い面を「人格NO.2」と名付けています。この二つの人格について、ユングは『意識的な人格』と、『無意識的な人格』と区別したのです。 これらのことから、母の存在はユング心理学論にとって絶大な影響を及ぼしたことがわかります。 そして、誰しもが自分の中に意識と無意識を持っているものであり、即ち人格も二つある。人は皆二重人格であると、ユングは見抜いていきました。 その確信に至るには、母だけでなく、自身の体験からの影響もあります。 ユング自身も、己の中に二つの人格があることを幼い頃より自覚していたのです。 それには、今でいう中学から高校のようなもの(ギムナジウム)に、ユングが通っていた頃に発端があります。年齢でいえば、ユングが11歳の頃から学校に通い始めます。


 ★<1886年 Year Cycle 2の中の#20-2 11歳> 
この頃、学校に通い始めたユングは、自分が他の子供と比べて貧しい田舎者の息子であったと初めて痛感します。{#2}という、周りの人間との協調性を学ぶ時において、この他者との比較は、ユングには強い衝撃であったと想像できます。 

 ★<1887年 Year Cycle #3の中の#12-3 12歳>
12歳のある夏、ユングは友人とふざけあっていて突き飛ばされ、頭を打って意識を失います。実際にはすぐに意識を回復するのですが、友を懲らしめる為にわざと長い間失神したふりをしたそうです。(この辺りは、{Action#3}の子供らしさを想起させます。{#3}のサイクルに入り、やっと子供らしい面が表れたのでしょうか…) そして、その結果周りは大騒ぎとなり、医者には半年間もの自宅療養を言い渡され、ケガ自体は大したことはありませんでしたが、しばしば軽い頭痛を起こすようになったことを理由に学校を休学します。 そして実は、ユングはここぞとばかりにこの休学を謳歌しますが、父が自分に対して本気で将来を心配していることを知ると、それ以来、軽度とはいえ頻発するようになった頭痛と向き合い、自分の力で学校に復帰するに至ります。後に、その頭痛は、ユングが医師になってから初めて「神経症」の一旦であったっと知ることになります。 父が自分の将来について本気で悩んで心配していることに、ユングは衝撃を受けると共に罪悪感も抱いたのでしょう。 

{Birth#9}と{Personality#6}の、揺れやすさと、家族に対する思いやりや優しさをここに伺うことが出来ます。 その後、ユングは、 ”孤独で数学が苦手な、貧しい牧師の息子”という現実的なしょぼくれた通常の自分と、”威厳を備えた老人のような、理知的な自分”が自分の中に存在していることに気が付いていきます。 彼は、母同様に、自分でそれを「第1(の自分)」「第2(の自分)」と名付け、その「第2」の存在は誰にも明かさずに、それを観察し続けます。 これには、不安と劣等感を感じていたユングが、自分の中に二つの人格を想定して、はじめて精神のバランスをとっていたのではないかという説もあります。 

20歳を過ぎる頃まで、この二つの人格はユングの中で互いに影響しあい、争っていたと言われます。 しかしながら、その劣等感も、バランスをとる為に出現した二つの人格も、ユングの説いていく心理学の基盤に、まさになったと言えます。すべての体験が、後に結びついていくのです。 もう一人の自分に気付き、その自分を観察しながら、深く自己を知っていく。 この流れこそ、{Cycle#7}と言えるのではないでしょうか。


 ★<1895年 Year Cycle #3の中の#20-2 20歳>  
1895年、ユングは亡くなった祖父が学長を務めていたバーゼル大学で医学を専攻することになりました。彼はあらゆることに広く興味があり、かなり悩んだ末に、この医学部を選んでいます。 ユングは勉強熱心な学生でもありましたが、医学は当時、彼にとってあまり興味のある分野ではありませんでした。それよりも、当時の学生運動に参加し、哲学・心理・オカルティズム等に関心を寄せ、盛んに演説や討論を繰り返し、学生新聞にもいくつかの論評を書く等、精力的に活動をしていたようです。

また、ユングの人を惹きつける話術や熱病のような恋愛などについて、同年代であった従兄弟の証言が残っているといいます。 {#5}を持つ彼の、人を惹きつける不思議な魅力と、恋愛事情が垣間見えます。 また、この頃、ユングは8歳年下の従姉妹との心霊実験グループにも参加しており、従姉妹を霊媒に降霊会を何度も行っています。この活動は後の博士論文のテーマともなり、ユングにとって重要な体験がここであったと言えます。(しかし結局、降霊会での出来事は多重人格の人格交代の症例として発表しています。) そして、この頃、彼の一生を決定づける、オーストリアの精神医学者リヒャルト・クラフトエビングの著書「精神医学概論」と出会います。

 「精神科医は、人格の病に関わる心の医者である」という一節を読み、ユングは、精神医学こそが自分の求めていたものだと知り、迷うことなくその道に進むことになりました。※   
※ユングは、もともと自然科学(真理)と比較宗教学(心・魂)に興味を抱いており、精神医学は、この二つが統合された学問であると知りました。 他に、学生運動時代には、ニーチェにも強く影響されているようです。

 創造力の開花、視野の広がりという{#3}というサイクルの中の{Year Cycle #20-2} 、{#2}は学びと自立のナンバーであり、ユングはまず「医学」という道を選びました。そして、{#0}は、霊的な感性と直感という意味があります。霊的な直感に導かれるように、ユングは精神医学の世界と出会ったと解釈できます。 ★<1896年 Year Cycle #3の中の#21-3 21歳>  病によって父が他界し、ユングは家長となるのを余儀なくされ、母と妹を養う必要性が出てきます。  サイクル{#3}の、”忍耐と経験”、といえるのではないでしょうか。

 1895年(ユング20歳)から1900年(ユング25歳)までのユングの学生時代は、貧困との戦いでもありました。彼は経済的に困難な中、多額の借金をして学業を続けました。 この辺りをフロイトと比べた場合、裕福な生まれのフロイトは8年を掛け大学を卒業したのに対し、ユングは経済的にも短い期間で卒業しなければならず、5年という短い期間で大学を卒業し、大学付属の精神病院の教授の助手として仕事を始めるのです。


 ★<1900年 Year Cycle #4の中の#16-7 25歳>  
後に「統合失調症」概念の提唱者となるオイゲン・ブロイラーの元で助手を務めることになります。 この出会いは運命的であり、ユングにとってとても幸運なものでした。 何故なら、ブロイラーこそフロイトの精神分析(※)に対する考え方を初めて評価した人物であり、「統合失調症」の分野のもっとも有名な学者であったからです。 ユングの成功と名声は、このブロイラーの評価によるところが大きかったのです。

 基盤を作る{#4}というサイクルの中で、{Year Cycle#7}の、ステージアップ・可能性の拡大という流れをユングは確かに掴みました。  ※1900年、フロイトの「夢判断」の本が出版される。それは精神分析学の出発点となるものであるだけでなく、それまで単に不可解なもの、あるいは神秘的なものとしてあやふやに扱われてきた”夢”を心理学的な分析の対象にし、そこに意味があることを初めて示したという点で画期的な著作でした。 そして、これは「無意識」の働きについても初めて示された本であり、後の心理学に非常に大きな影響を与えました。  


★<1902年 Year Cycle #4の中の #18-9 27歳>  
博士号を取得。  {Cycle Number #7}の最後で、ユングはまた確かなステップアップを果たしました。  {Year Cycle#4}という基盤を作るサイクル中で、{#18-9}の”才能の開花・次の光へ”とユングはまた進みます。


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Cycle Number 28~45歳 #8 
Pinnacle Number 28~36歳 #2 
Pinnacle Number 37~45歳 #8 

 『壮年期~』  

★<1903年 Year Cycle #4の中の #19-10-1 28歳>  
エンマという女性と結婚。 ユングは21歳の時に14歳のエンマを見かけ、将来この少女と結婚することを直感したといいます。 家系的なものもあるのでしょうか、ユングは生涯に渡り、直感的な導きが多く見られます。 数秘では、{Soul#8}の直観力がありますが、 サイクル的に見ても、エンマとの出会いは{#3}サイクルの中の{#21-3}であり、サイキックな導きがある{#2}とソウルメイトとの出会いである{#1}の年に出会っていることは、やはり運命的な出会いだったと言えます。 結婚するには{#4}というやや堅いサイクルの中ではありますが、イヤーサイクル{#1}での結婚は、堅実なものだったと言えるでしょう。

 <1905年 Year Cycle 4の中の#21-3 30歳> 
 チューリッヒ大学医学部私講師に就任。

★<1906年 Year Cycle 4の中の#22-4 31歳> 
1906年4月、フロイトがユングへ送った手紙から、文通が始まります。 この時、ユングのイヤーサイクルはまだ{#4}の中の{#21-3}。 その後1913年までの約4年間文通は続く。 他、主だった動きとしては、 フロイトの精神分析への正式な参加があります。 

★<1907年 2月 Year Cycle 5の中の#13-4 月サイクル #6 31歳> 
1907年2月、ユングはフロイトの自宅を訪ねます。 
この時が初めてユングがフロイトと対面した時になり、 2人は13時間も語り合い、フロイトはユングのことを「最も期待しうる後継者」と絶賛し、 ユングはフロイトのことを「生涯で出会った最も偉大な人物」と称しました。 MonthCycle{#6}から見ても、重要な”変化の中の基盤の年”、その中の”調和の月”だったと言えます。

<1907年 Year Cycle 5の中の#14-5 32歳> 
「早期性痴呆の心理」  刊行 

 ★<1908年 Year Cycle 5の中の#15-6 33歳> 
ユングとフロイトの”蜜月の時”と言われる時期まっただ中です。
ユングとフロイトの文通は359通に及び、 フロイトはユングを信頼し、息子のようにも思い、ユングは偉大なフロイトを父のように思っていました。 1908年1月には、ユングはフロイトにある研究会の座長就任を依頼し、フロイトは快くそれに応えています。そのことからも、フロイトはユングに対して全般の信頼を置いていたことが伺えます。 <1909年 Year Cycle 5の中の#16-7 34歳> ブルクヘルツリ大学病院を退職 個人開業医として専念し始める。 フロイトと共にアメリカを訪れ、フロイトを継ぐ精神分析家として講演を行う。 それ以後、ユングはフロイトの後継者という位置づけとなる。

 <1911年 Year Cycle 5の中の#18-9 36歳>
国際精神分析学会設立、初代会長となる。

 ★<1912年 Year Cycle 5の中の#19-10-1 37歳>
「リビドーの変容と象徴」 刊行 と、フロイトとの決裂。 順調であるように見えた二人の交流ですが、 実は、1909年にフロイトと共にアメリカを訪問していた頃には、既に二人の間に緊張がありました。 ユングは精神分析家になる為には、自身も精神分析を受ける必要があると主張し、『相互作用』を求めて、フロイトにお互いに精神分析をするべきだと求めたのですが、フロイトは「プライバシーの侵害だ」としてそれを拒否しました。それに対しユングは失望を覚えますが、 その後も、ユングはフロイトに父を重ね、フロイトに対して依存をみせていきます。 フロイトはユングの依存に気付きながらも、非ユダヤ人である優れた分析家のユングを手放すことが出来ず、交流は続けられます。 

しかし、とうとう、 「リビドーの変容と象徴」において、ユングはフロイトの性欲理論を否定したことから、二人の決裂が決定的なものとなりました。(※すべての心理的な問題が性欲から動機づけられているわけではないという主張) 11月の国際精神分析協会での代表者たちの会議において、フロイトはユングに対する怒りが爆発し、あまりの怒りに失神して倒れます。 フロイトを介抱したユングはその時のことを回想して、「私に向けた彼の眼差しを私は決して忘れないだろう。よりどころのない状態の中から私をみつめた。まるで私の方が彼の父であるかのように」と述べている。 ユングはその時点でようやく、フロイトに対する父親コンプレックス的な憧れ、依存心から目を覚まし、実在の人物に父親的なものを求めるような、父親探しは終焉を迎えました。 {#5}の変化の中で、ユングはフロイトからの独立を選んだのです。


 ★<1913年 Year Cycle 5の中の#20-2 38歳>
ユングは、自ら”絶縁状”を書き、フロイトと完全に袂を分かちます。 1914年4月には、精神分析協会の会長も辞任し、精神分析の世界から去りました。 その後、チューリッヒ大学医学部講師の職も辞め、完全に孤立した状態に身を置きます。 自宅での個人開業による患者との対話を続けながら、ユングは自己と更に向き合っていきます。

 ★<1916年 Year Cycle 5の中の#23-5 41歳> 
それと知らず、最初の曼荼羅を描く。 この頃、ユングは、自分でも何故かわからずに毎日のように丸い形の絵を描いていました。 その絵を描くことによって、ユングは不思議と落ち着くことが出来たといいます。 そして、その円は、自分の中の様々な要素が一つに統合する全体性を表す象徴だとユングは気付きます。自分の中の劣等感やプライド、論理や感情を一つにまとめて調和させようとする心の働きが、”丸”という図形に表れたのであり、”丸”を描くことで、心が安定したのです。 後に、ユングはその図形が、東洋でいう”曼荼羅”と呼ばれるものだということを知ります。 そして、ユングは東洋仏教、仏教哲学を熱心に研究することになります。 (※異文化との接触)

 <1918年 Year Cycle 6の中の#16-7 43歳> 
戦争抑留英国人収容。収容所の司令官になる。


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 Cycle Number 46歳~ #3 
Pinnacle Number 46歳~ #1 

 人生の後半に入り、 ユングは、 {#3}の創造性と、{#1}のリーダーシップ、これまで培われてきた知識と体験からなるオリジナリティを発揮していきます。 

 『壮年期~老年期』 

 <1921年 Year Cycle 6の中の#19-10-1 46歳> 
「タイプ論」 刊行 ※それぞれの個人は世界と異なる関係を結んでいるとして、人間のタイプを8つの性格に分類した。 個人のものの見方が絶対性を獲得することはない。そして単に人格の多様性が強調されるだけでなく、その中に内的な二面性・二極性や対立・緊張といった概念も含まれているのがタイプ論である。


 ★<1923年 Year Cycle 6の中の#21-3 48歳> 
 母エミーリエ没。 1923年、母の死後、ユングはチューリッヒ湖畔に入手した土地に、 自らの手で”石の塔”と呼ばれる古風な石積みの建物を建築します。 当時のユングは、母の死の悲しみにさいなまれながら、臨床と研究に追われて 自分の中の悲しみに向き合うことができない日々を送っていました。

 塔の建設は、どうしても一人になって自己と向き合う必要があった為に、一種の「避難場所」として建てられたという説がありますが、 ユングは、「最初から塔は私にとって成熟の場所となった」と自伝に記しており、 一人きりで自己と向き合うことで、内面の成熟をはかり、 また、塔は、自分がありのままの自分になれる、子宮のようなものだったともしています。 「人間の原始的な感情に対応するような住処であり、物理的な意味だけでなく、心理的な意味でも庇護されているような感じがするものでなければならなかった」 「最初から塔は私にとって成熟の場所となった。子宮、あるいは、その中で私が再び、ありのままの現在、過去、未来の自分になれる母の姿だったのである」 と、ユングは語りました。 ”石の塔”は、ユングにとって”母性の象徴”でもあったようです。 


★<1928年 Year Cycle 7の中の#17-8 53歳> 
 錬金術について研究開始。 ユング独自の視点で、彼は錬金術の「異なる物質の結合」というテーマに、 「心の中の異なる要素の結合」を重ね、 錬金術を終生の研究テーマとします。 

 <1930年 Year Cycle 7の中の#19-10-1 55歳> 
ドイツ精神療法学会の副会長に就任

<1933年 Year Cycle 7の中の#22-4 58歳> 
会長となる。 エラノス会議始まる 

 <1934年 Year Cycle 7の中の#23-5 59歳>
国際精神療法学会設立、会長になる

<1939年 Year Cycle 8の中の#19-10-1 64歳> 
会長辞任 

 <1940年 Year Cycle 8の中の#20-2 65歳> 
「心理学と宗教」 刊行するも、ナチスによって発禁処分 

<1941年 Year Cycle 8の中の#21-3 66歳> 
 ケリーニイと共同で「神話学入門」 刊行

<1944年 Year Cycle 8の中の#24-6 69歳> 
「心理学と錬金術」 刊行

<1945年 Year Cycle 8の中の#25-7 70歳> 
 名誉博士号授与 

 <1948年 Year Cycle 9の中の#19-10-1 73歳> 
ユング研究所設立 

 <1951年 Year Cycle 9の中の#21-3 76歳> 
 「アイオーン」 刊行 

 <1954年 Year Cycle 9の中の#25-7 79歳> 
「意識の根源について」 刊行 

 ★<1955年 Year Cycle 9の中の#26-8 80歳>
妻エンマ没。 「結合の神秘」刊行 これにおいて、錬金術に見る心理学の研究を完成させる。 
これはまさに、サイクル{#9}の”完成”の中の、ユングの集大成の著書になります。 個人の”心の成長”から、”高次の全体性”を目指すことが書かれている内容ですが、 その内容は理解が難しく、説明不明なものを説明不明なもので更に説明し続けるといったものであり、だけれども、その”不可解さ、不可知性にこそ心の永遠で超越的ともいうべき癒しと救いの源がを見る”というユングの肯定的な眼差しがあると、記すものもあります。

 <1958年 Year Cycle 1の中の#20-2 83歳> 
「空飛ぶ円盤」 刊行 

 ★<1961年 Year Cycle 1の中の#22-4 85歳> 
6月6日 ユング没。
  ユングの最期の言葉は伝記にこうあります。 

「この世界は無慈悲で残酷であると共に、神聖な美しさに満ちている。この世の生活において人は無限のものと結びついている。そして無限のものが絶えず全体性への実現へと人を導いていることを理解すれば、人は真にその生命を生きることになるだろう」 


 これ以上の言葉はないと、今の私には分かります。 
ユングは父のように慕っていたフロイトにさえオカルティズムに傾倒していると否定をされ、そしてユングはそうした批判を数多く受てきた人物でもあります。今現在でさえそんな批判があります。 
しかし、この言葉から分かる通り、彼にはこの世の真理が見えていたのです。 彼にしか分からない世界を抱えて、彼は何を思って生涯を生きていたのでしょうか。 
{#9}を持つユングは、どれだけの想いを持って、生涯を生きたのでしょうか。 

 レポートをまとめながら、 彼を研究に没頭させたのは、生涯に渡る、”受け入れられない悲しみ”と反比例した、”それでも伝えたい”という”愛”の想いの強さであったように思いました。 
 {Challenge number #33-6}であった彼は、 確かに{#33}の高い波動の創造性を、広い人類愛の為に行使してきたと言えるのではないでしょうか


東京クラス Asami Suzuki 

by kej000 | 2014-03-14 12:52 | おもしろ数秘学

オッペンハイマーの記録  数秘クラス基礎科・レポートより

東京数秘基礎科クラスの生徒さんの卒業レポートです。

原子爆弾開発製造のためのマンハッタン計画に加わった「あの人」のバイオグラフィーを数秘と共に追っています。


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Julius Robert Oppenheimer ジュリアス・ロバート・オッペンハイマー


1904 年 4 月 22日 - 1967年2月18日 

ユダヤ系アメリカ人物理学者。ニューヨーク生まれ。


実業家の父親、画家の母親をもち、 芸術と教育に囲まれた裕福な家庭に生まれ育った。ハーヴァード大学を 3 年で卒業、ケ ンブリッジ大学から新しい学問として注目されていた量子力学の中心であるゲッチンゲン 大学へ移籍し、博士号を取得。カリフォルニア大学助教授の職を得る。第二次大戦中 に原子爆弾開発製造のためのマンハッタン計画に携わり、ロスアラモス研究所の所長 をつとめ、爆発実験を成功させた。広島・長崎に原子爆弾が投下された後、アメリカで は戦争を終わらせた兵器を開発した「原爆の父」として一躍有名になった。戦後はプリン ストン高等学術研究所の所長に就任。核兵器が戦略爆撃に使用されることを阻止する ために尽力したため、水爆の父テラーと対立。その後、ソ連のスパイ、国家機密保持が不可能な性格に欠陥をもつ人物などと社会的に貶められた。その後、フェルミ賞の受賞などで名誉を回復し、同僚には敬愛 されていたが、一般的なイメージは悪いままであった。指導してきたグループからノーベル賞受賞者を多数輩出するなど優秀な 教育者としても知られる。


Birth#4(22-13)

 Day#4(22) Year#5(14) 

Month#4 Day&Month#8 

Destiny#6 Soul#2(11) 

Personality#4(13)
Realization#1(10) 

Stage#2(11) 

Challenge#7 

Nature#9 Action#5 

Cycle 0-32 #4 33-50 #4 51- #5

Pinnacle 0-32 #8 33-41 #9 42-50 #8 51- #9
Challenge 0-32 #9 33-41 #1 42-50 #8 51- #1
TypeII Creation#2 Growth#6 Maturity#1 

Lead#3 Support#5 MakeMood#1 Body#5 Emotion#3

 Intelligence#1 TypeIII Balance -10



■Birth# [22-13-4]


ごく幼い頃は鉱物の研究という地道な作業にいそしみ、才能を次々開花させ、早い段階で基礎固めの#4 から卓越した創造 の#22 に移行したとみられる。
#22 に移行してからはダイナミックな時流の中、量子力学という新たな分野で研究、後進の指導にいそしんだ。戦争中は原子 爆弾研究開発に携わり、戦後は対立に負け名誉墜落。多くの功績、天に上り地に墜ちる波乱に富んだ人生、素晴らしい後 進の指導、その後の人類にも大きな影響を与える研究と、スケールの大きなマスタービルダーとして#22 の生き方を全うした。


【#4 真面目で勤勉 #22 卓越した才能】

オッペンハイマーは裕福な家庭に育ち、高層住居に住んでいたためか、外を駆けまわるよりも、本を読んだり鉱物の研究をしたり する、知的に大変早熟な子供だった。5 歳の時に父方の祖父から鉱物標本を贈られ、心をとらえられたオッペンハイマーは、 12 歳の頃にはニューヨーク鉱物学同好会の会合で研究発表を行うほどであった。
ハーヴァードは最優秀の成績で、3 年で卒業。B 評価が二つ、それ以外は全て A 評価であった。ゲッチンゲン大学でボルンと 共同で発表した論文、ボルン-オッペンハイマー近似は現在でも分子の量子力学を学ぶものが必ず理解しなければならない 重要事項となっている。



理論物理学者として、原子爆弾開発・製造の責任者として、教育者として数多くの業績を残している。

【#4 芸術、アート、自然、学問】

裕福で、画家の母を持つオッペンハイマーは幼い頃から、ゴッホやセザンヌが飾られる家で育つ。#6 にも関わるが美しい物を 愛し、才能を愛した。詩や小説、音楽にも親しみ、自分でも詩をつくったが、才能ある友人や恩師に酷評されていた。 またニューメキシコの荒々しい自然の中、馬に乗り駆け巡ることを愛していた。


【#22 カリスマ指導者として】

博士号取得後、カリフォルニア州立大学で助教授の職に就いた。最初は大変不評であったが次第に、学生たちの心をとら えるようになった。物理学の論理的構造の魅力的な美しさ、物理学の進展が与える興奮を、彼は学生たちの心に伝えた。 「オッペンハイマーの性格のいろいろの面が偉大な教師になるのに役立った。物理学者としての偉大な力量、広い知的興味、 頭の回転の驚くべき速さ、すぐれた表現の才、感受性の細やかさ、人目を惹きつける風采、そうしたものが人の集まりではいつ も彼を中心的存在とした。彼の学生たちは出来るだけ彼を真似ようとした。彼の身ぶり、彼の癖、彼の口調まで真似ようとした。」 と同僚の言葉。

グループでは電磁力学、宇宙線、宇宙物理学、核物理学が同じ場所で議論された。 アインシュタインが「アメリカ最大の理論物理学の学派」と呼んだオッペンハイマーの弟子からノーベル賞受賞者を多数輩出し た。


【#22 宇宙の英知とつながる】

特定の宗教は持たなかったが、ヒンズー教の宇宙観に強く惹かれており、バカヴァド・ギーターを原典で読むためにハーヴァー ド時代サンスクリット語を学んでいる。


【#22 敵が多い】

学生時代は知的才能を鼻にかけた言動が多くみられ、教師受けは良かったが、同級生にはそうではなかった。ゲッチンゲンで はセミナーの最中に「それは違う」と前に出て授業を中断させることもあった。生徒からのクレームのメモを目にしてからはそういう 行動は慎むようになる。 戦後、核兵器の使用に反対し、水爆の父テラーと対立。シラードとも対立し、オッペンハイマー聴聞会では共産党員でソ連の スパイだと嫌疑をかけられ、公的地位を追われる。人に善を見ていたオッペンハイマーはひどく痛めつけられた。


【#22 神経過敏】

ゲッチンゲン大学で生まれたばかりの学問量子力学の論文を書いていた時、ダイナミックな時流、爆発的進展の中で、神経を すり減らし叫び声をあげたり失神したり、ということが伝えられている。

【#22 地に足がつかない】 象牙の塔、浮世離れしたところがあり、世界大恐慌を知らなかったり、大統領選挙に行かなかったり。オッペンハイマーの終生 の親友ラビも「オッペンハイマーにあっては地上的な要素は希薄だった」と言っている。 ロスアラモス研究所所長になった時、軍管轄を受け入れ軍服を自ら着ようとして、周囲に「研究者はそれではいけない」と押し とどめられた。



■Destiny# [6]


アートを愛する心。理論物理学ではしばしば「美しい」という言葉が使われるように、新たな分野で発見が相次ぐ量子力学に魅 了されていた。人を愛し、仕事を愛し、平和と調和を愛していた。


【#6 美的センス】

画家の母をもち、家にはセザンヌやゴッホの絵が飾られていた。音楽や美術、詩や文学に関心を持ち愛し理解していたが、ア ートを生み出す才能は凡庸だったようだ。


【#6 家庭と愛情】

家庭を大事にし、母親にはこまやかな気遣いや贈物をし、喜ばせた。後年「母と一緒の時は会話に苦労した」と語り、必死に 良い息子を演じていた。 恋愛関係にあった女性とは振り回されながらも、献身的に尽くした。共依存の関係であったかもしれない。


【#6 親切さ】

大不況時代の貧しい学生たちをよく高級レストランへ連れて行っていた。 同僚に褒められた旅行鞄をその場でプレゼントしようとしている。 ロスアラモス研究所所長時代、研究員の妻の病状を気にかけていた。建設工事で働く人にもファーストネームで話しかけ、大 変好かれていた。

実業家の父から多額の遺産を基金とし、カリフォルニア大学に奨学金制度を設立している。


【#6 教育者・調和】

#22 でも書いたが、カリスマ性のある指導者として、学生たちと共に学び議論を戦わせ、多数の優秀な人材を育てた。 ロスアラモス研究所では研究者タックによると「世界最高級のクラブだった。他の研究所ではほんのわずかの内輪の人間だけ が仕事の内容を知っていて、他の者はわけがわからなくてもただ従うべきだという考えが専らだったのだが、オッペンハイマーはは じめからその馬鹿げた考え方を抹殺した。ほぼ無名の科学者だった私はここにきて、私が教科書の中の名前だとばかり思ってい た人物たちと意見を戦わすのが当然だとされているのを知った。素晴らしいことだった。一つの開眼だった。ここロスアラモスで、 私はアテネの精神、プラトンの理想の共和国の精神を見出した。」 研究者だけではなく画家や哲学者なども招き、文化的なコミュニティを作り上げていた。彼は誰に対しても親切で気にかけてい て、この研究所では劣等感を感じる人はだれ一人いなかったと言われている。


【#6 平和】

実弟のフランクが後日ドキュメンタリー映画『The day after Trinity』(メキシコの実験場はトリニティ実験場と呼ばれた)の中で語っ たところでは、世界に使うことのできない兵器を見せて戦争を無意味にしようと考えていたそうだが、人々が新兵器の破壊力を 目の当たりにしても、それを今までの通常兵器と同じように扱ってしまったと、絶望していたそうである。 また、戦後原爆の使用に 関して MIT の現代世界における物理学というテーマの講演の中で「科学者(物理学者)は罪を知った。そして、これは物理学者 が失うことのできない知識である」と語った。



■Realization# [10-1]


絶対性 創造 独立 男性性 革新 斬新 決断

恩師であるエーレンフェストもパウリもオッペンハイマーの機知にとんだ着想の豊かさについて語っている。 量子力学という学問が誕生し、新発見が次々となされる熱狂的な 1925 年~1930 年。最先端をいくゲッチンゲン大学・ハイゼ ンベルク、ディラック、パウリ、ノイマンなどの後を若い秀才、オッペンハイマーはしっかりとついて疾走していた。その様子を見た恩 師の言葉「こちらの数理物理学者のきらめく新星たちの誰を相手にしても互角に渡り合っている」。 一時は絶望と思われた原子爆弾の開発・製造に成功し「原爆の父」と呼ばれた。戦後は、二度とふたたび一般非戦闘員の 頭上で炸裂することのないように尽力していた。常に先頭、または先頭に近い位置で創造性を発揮していた。


■Soul#[11-2] 11:理想。神秘。夢想。洞察力。アイデアマン。自然。学問。 2:調和。協調。受容。協力。気配り。調整やサポート。芸術。宗教。

オッペンハイマーの心象風景とヒンズー教は密接なかかわりをもっていた。 ハーヴァードを卒業する時、文学の美しさと、神秘的ですらある理論物理の美しさのはざまで自分の知的焦点をはっきりさせるこ とができず苦悩していた。オッペンハイマーは「私が最も愛したのは物理学とニューメキシコだった」と語っている。 ロスアラモス研究所でも前述のように画家や哲学者、文学者を招き、文化的な理想のコミュニティを作り上げた。研究者だけ でなく、その家族や、建設工事に携わる人たちへの気配り、配慮も忘れていなかった。 「人生のほかのすべてのことにくらべて、科学することは幸せだ、と私は思う。」これは死の 3 年前のオッペンハイマーの言葉である。


■Personal# [13-4] 建設。固定。形成。実直。合理的。実現力。知識欲。生真面目。信頼。

C・スミスはロスアラモス研究所所長時代のオッペンハイマーを「現場のレベルのこまかい問題点まで理解して、それを研究所と してのより大きな目標に結びつける、信じがたいような能力を持っていた」と評している。 生真面目さゆえか、処世術に欠ける面もあったようで、プルーデンスを持たない男と評価を受けている。その純粋な一面が学 生たちには好意的に受け入れられたが、社会的にはいいように利用されてしまった。 Destiny#6の通りに生きなければならなかったのに、大量殺りく兵器の開発、製造、投下に結果的に関与してしまった。#13 が発 動し、社会的に抹殺されかけ、激しい罪悪感の中に身を削って生きていくことになってしまった。戦後は罪悪感と責任感、世間 からの迫害により、50 過ぎなのに 70 過ぎの老人にしか見えないほどに弱っていたようだ。ただ、オッペンハイマーを信じ、愛し、慕 う人たちは少ならからず権力に近いところにいて、1961 年からはオッペンハイマーの名誉回復に動き始める。また死の前年行っ たロスアラモス研究所での講演では、会場を埋め尽くした聴衆がオッペンハイマーに嵐のような喝采を送ったという。


■StageNumber# [11-2] 11:理想。神秘。夢想。洞察力。アイデアマン。自然。学問。 2:調和。協調。受容。協力。気配り。調整やサポート。芸術。宗教。

Soul#と同じ。魂の求めるものがそのままステージとして用意されていた。オッペンハイマーの活躍の舞台は学問と芸術、宗教の 中をベースに、頭脳と研究者仲間との協力関係で生きたといっても過言ではないだろう。


■NatureNumber# [9] 全体意識。人類愛。博愛。正義感。混沌。複雑。複雑な二極性。

学生時代は文学の友人と、化学科の友人とで壁をつくり交流はなかった。自身も文学と科学とで人生の焦点に揺れており、 二重生活者であったと評されている。
また教師となってからは慈愛を持って人を導き、感化する能力を発揮した。 他人の究極的な善意を信じるオッペンハイマーのナイーヴさが他人を操作する術策に代わる役を見事に果たしたと言われ、そ の性質が若者たちをも魅了した。


■ActionNumber# [5] 変化。自由。多才。機智。不安定。「新しい風」

ハーヴァードを卒業した直後に誕生した新しい学問、量子力学。文学と自然科学の間で揺れていたオッペンハイマーが量子 力学という未知の分野で生きていくことを決心するまで精神的に病むまでに不安定であった。決心してからは自分の人生に自 信を取り戻し、若い才能を最先端で発揮していく。


■ChallengeNumber [7] 知性。内省。探究心。独創性。分析力と直観力。世俗からの離脱。英知。平和的。独創性。知識を深め、落とし込み、独創的な創造をおこなっていく。オッペンハイマーの生き方、人生そのもの。


■TypeII
Creation#2 Growth#6 Maturity#1 Lead#3 Support#5 MakeMood#1 Body#5 Emotion#3 Intelligence#1 

自分の本質を見つめることにより、魂の成長を目指す。社会的集団無意識を独特の方法でキャッチする。 >文学ではなく、時代の最先端分野であった量子力学に飛び込み、戦争という時代の中で研究を通して自分の本質を見つ めていた。そして得た答えは「核兵器は悪だが、物理学は悪ではない」「私が最も愛したのは物理学とニューメキシコだった」。

指導者として、皆をひっぱっていくのではなく、支援する形で導き、場の雰囲気を独創的な方法で創り上げる。 >オッペンハイマーは学生たちに安易な問題は与えなかった。時間さえかければ結果が得られると思われる課題は取り上げず、

未解決の重要問題に彼自らが立ち向かい、時代に先んじたアイデアを抱き、弟子たちに協力を求めるという形をとっていた。 また不況時代、自分の学生たちを食事や観劇に連れ出したり、遺産を使って奨学金基金を設立したりした。

身体に関する情報は未入手。幼い頃から研究に没頭し、痩せていて運動も苦手、メンタルも患い、大病もした。激務に耐える ため、予想しえない健康法などを心がけていたかもしれない。
知性は幼い頃から非常に鋭かった。


■TypeIII
Balance -10
豊かな才能と家庭の豊かさをもっていたが、事業をつぐなどは考えず、経済的な支援はあったものの、1から自分で人生をつくり あげていった。数多くの経験、人との交流、挫折から多くのものを得、生み出していった。



●HISTORY●


◆0~32歳 Cycle:4 Pinnacle:8 Challenge:9


外で遊びまわるような子供ではなく、本や鉱物標本を愛する内気な子供であった。知的に早熟で祖父も父も財を惜しまず知識 を伸ばすために投資したようだ。
国内外を行き来し、様々な人、環境に接し、実績を残しながら経験を積んでいく。

・1916年 12歳 5(14)-7(16)

ニューヨーク鉱物学同好会で研究発表を行う。 >好奇心、向学心の赴くままに動き、成果を出し、ステージアップ。

・1921年 17歳 5(14)-3(21)

高山地帯で採石に熱中。大腸炎になり入院。予定していたハーヴァード入学が延期になり、うつ状態。 >未知の分野を開拓。熱中し過ぎたのか耽溺したのか、体調を崩し落ち込んでしまう。


・1922年 18歳 5(14)-4(22)

ニューメキシコに恩師と心機一転の旅行。ロスビノス牧場に滞在。自然の中、素晴らしい友人と人生論、文学談義を行い、 山野を馬で駆け巡る。体調を取り戻しハーヴァードに進学。 >新しい土地、新しい人間関係、新しい経験。友人と人生や文学について議論をかわし、自分の人生の基盤を固める。


・1925年 21歳 6(15)-7(16)

ハーヴァードを駆け抜け 3 年で卒業。最優秀の成績をおさめる。親友ファーガスンと文学談義の最中発作的に首を絞める事 件。精神科医に通う。
>秀才ゆえ、成績は良いが自分の本質を内省を深め探っていたか。


・1926年 22歳 6(15)-8(17)

イギリスへ行き、望んだ研究所ではないところで実験物理の仕事につく。とことん向いておらず失意。量子力学の論文を発表し、 新しい道の学問量子力学を志すことを決意する。新しい学問の進展の速さに神経をすり減らし、奇声を上げたり失神したり。精 神科医に通うが、医者に見放され、また自身も医者を見放すことで自分を取り戻す。秋にケンブリッジからゲッチンゲンへ移籍 し、量子力学の興奮状態の中、博士合を取得。ボルン-オッペンハイマー近似の発表。 >文学と科学で揺れ動いており、足場が固まっていなかったときの#8 の年で、安定しないながらも実績を積み重ねていく。


・1928年 2歳 6(15)-1(19)

ロックフェラーからの留学奨学金を得る。オッペンハイマーの性質を「機智に富むが良い形に鍛え上げられることが必要」と考 える恩師エーレンフェストがチューリヒのパウリの元で研究するように勧める。チューリヒでは物理学者たち相互の人間関係と自 由で開放的なコミュニティの素晴らしさを知る。研究者としても人間とにもパウリのことが大好きになる。 >チューリヒで過ごしたパウリとの時間はオッペンハイマーの生き方を決定的に左右したと言われ、自由で開放的なロスアラモ ス研究所のコミュニティ、文化につながっている。


・1929年 25歳 6(15)-2(20)

秋の新学期からキャルテクとカリフォルニア州立大学の助教授の職に就く。最初はしどろもどろの授業で学生に大変不評。 6(15)のサイクルが終わる 1933 年 29 歳 6(15)-6(24)になる頃には学生が 2 度 3 度と受講を希望する、絶大な信頼を受ける 教育者となっていた。 >一研究者の立場から指導者、教育者となるための変化。オッペンハイマーの人生のテーマは美しい学問と教育、指導で あったのだろうと思わせる。

・1931年 27歳 6(15)-4(22) 母エラ白血病で死去。最後まで良い息子を演じていた。

>6のサイクルの家庭、生死の課題。過保護なほどオッペンハイマーのことを気にかけていた母親の死は、大きな影響を与えた と思われる。


・1936年 32歳 7(16)-9(18) 秋。ジーン・タトロックと出会いデートをする関係に。精神を患っていた彼女の相手の心を試 すような愛し方に振り回される。 >その後別れることになるが、ジーンのことは心に懸けており、ジーンの死半年前にも見舞っている。結婚することはなかったが、 精神的に深い絆、つながりがあったのだろう。


◆33歳から41歳 Cycle:4 Pinnacle:9 Challenge:1

これまでの基礎の上にさらに基礎を積み上げ、結婚、ロスアラモス研究所所長となり、原爆の開発・製造にとりかかる。絶望 的とも思われた中成功し、広島・長崎に投下された。

・1937 年 33 歳 7(16)-1(19) 父ジュリアス心臓麻痺で死去。遺産は奨学金制度の基金に。 >財産という力の使い方を、自分の内面の豊かさのために使ったのかもしれない。社会に貢献することで、自信と威厳につな がったであろう。


・1938 年 34 歳 7(16)-2(20) ジーン・タトロックとの関係が彼女側から終了。
>2 のサイクルは恋愛面で共依存の危険。愛はあっても、その危険からオッペンハイマーを守ろうと彼女から身を引いたのかもし れない。


・1940 年 36 歳 7(16)-4(22) キャサリン・ぺニングと結婚。出会った当時、キャサリンは夫のいる身で共産党員であった。 >格上かどうかは情報がないので未確認。オッペンハイマーの弟夫妻も共産党員であった。絆は強いが共産党員が身近に いることで、後年の赤狩りで、苦しい立場に置かれることになる。

・1941年37歳 7(16)-5(23)

ローレンスに伴われ、原爆開発計画に関わり始める。長男誕生。 >専門性を高め、内省しつつ、未知の分野に飛び込んでいく様子がうかがえる。


・1942年 38才 7(16)-6(24)

理論家と実験化のお偉方のグループをまとめ、中性子の研究を組織的に進める集会を開催。迅速果敢、的確無比の理解 力、驚異的な記憶力、絶えず議論をもっとも重要な地点に押し戻し集中する確かな感覚で見事にとりしきった。 マンハッタン管区が発足。原爆設計担当の軍人グローヴスと出会う。グローヴスにより秘密研究所の所長にオッペンハイマー を起用される。 >専門性を深め、内省し落とし込むサイクルの分岐点であったように思われる。人間関係が拡大し、チームワークがカギとなる。 ロスアラモス研究所はオッペンハイマーによってアカデミックな理想のコミュニティとして創り上げられた。タック談、「ここロスアラモ スで、私はアテネの精神、プラトンの理想の共和国の精神を見出した。」


・1944年 40歳8(17)-8(17)

プルトニウム爆弾の実現が絶望的と見えた夏、憔悴しきり辞任の直前まで行った。精神危機を迎えていたジーン・タトロックを 見舞うが、その半年後睡眠薬の服用自殺。 >心身相当に疲労したであろうと思われる。8のサイクルの悪い面、自己破滅的、執着と恐れが強く出たか。


・1945年41歳 8(17)-9(18)

爆発実験を目前に控えた夏、水ぼうそうにもかかり、190cm の長身で体重は 65 kgから 50 kgにまで落ちた。 ドイツに原爆の製造ができないこと、ドイツ降伏の報に、原爆開発に集められた科学者達が日本への原爆投下反対の嘆願 書を提出。背景にはナチスに迫害されていた多くのユダヤ人科学者たちの存在があり、ナチスの原爆製造が不可能となれば、 これ以上大量殺りく兵器開発の理由がなかった。ユダヤ系アメリカ人であるオッペンハイマーも嘆願書を出したが、通ることはな かった。 爆発実験は成功。「爆風が過ぎるのを待って壕の外に出た。それは実に荘厳の限りであった。世界は前と同じでないことを私た ちは悟った。・・・私はヒンズー教の聖典「バカヴァド・ギーター」の一行を思い起こした。王子はその責務を果たすべきであること を王子にわからせようとヴィシュヌは試みている。そして王子の心を打とうとして、ヴィシュヌはその千手の姿をとり、「今我は死とな れり。世界の破壊者とはなれり」という。私たちはみな、何らかの形でそうした思いを抱いたものと私は思う」。 広島長崎原子爆弾投下。戦争終結。「原爆の父」の名をほしいままにする。 オッペンハイマーに陸軍の感謝状が贈られ、「ロスアラモス研究所、心身を挙げてこの研究所に尽くしてこられた男性、女性の

皆さんに対するこの感謝状を私は有り難く感謝をこめて受理いたします。末永く、この感謝状とそれが意味するすべてを誇りを持 って回顧するようでありたいと望みます。今はその誇りは深い懸念と共にあらざるを得ません。もし原子爆弾が新しい武器として、 戦い争う世界の兵器庫に加えらえることになれば、やがて人類はロスアラモスと広島の名を呪う時がくるでありましょう。 世界の諸国民は 1 つとならなければなりません。さもなければ滅亡が待っています。地球をかくまでに荒廃させたこの大戦が、こ のメッセージを書いたのです。原子爆弾がこのメッセージをすべての人にわかるようにはっきりと書いたのです。他の人たちも別の 時、別の戦争で、別の武器について同じ言葉を語りましたが、それが世界を制することにはなりませんでした。人類の歴史の誤 った通念に迷わされて、今度もうまくいくまいと考えるひともいます。我々はそれを信じません。我々みんなが直面する危機を前 にして、法においても人間の名においても我々は力を尽くしてひとつに結ばれた世界の実現を目指すのです。」 この言葉を残してオッペンハイマーはロスアラモスを去った。 >社会的成功をおさめたが、この成功により扉の開いてしまった次のステージが、決して自分が望んだものではないという現実 に向かい今後どうするべきか考え、ロスアラモス研究所所長を辞したのではないだろうか。


◆42歳から50歳 Cycle:4 Pinnacle:8 Challenge:8

ロスアラモスを去りプリンストン高等学術研究所へ。各地で講演を行う。水爆とミサイル開発に狂奔するアメリカ、人類を懸念し ていた。核兵器を戦略爆撃に使われることのないよう尽力していたが、徒労に終わる。


・1947年43歳 8(17)-2(20)

アインシュタインなど世界的な物理学者や数学者の所属するプリンストン高等学術研究所の3代目所長に若い物理学者を引 き連れ着任。数学部門に代わって物理部門が活動の中心となっていく。 >8の社会的成功の時、乞われて環境の変化に対応していく様子がうかがえる。ロスアラモスのような雰囲気にはならず、研 究所内の内紛に多くの心労を経験したようだ。


・1953年49歳 8(17)-8(26)

FBI 長官あてにオッペンハイマーはソ連のスパイであるという告発状が届く。 >人生のテーマの報酬を受け取るべき時に得たものは、社会的名誉の失墜であった。


◆51歳~ Cycle:5 Pinnacle:9 Challenge:1

公職を追放され、社会的抑圧を受けるようになる。戦争を終わらせた原爆の父オッペンハイマーのイメージは地に墜ち、心労か ら見た目以上に年老いていく。 その中でもオッペンハイマーを支持し信頼し愛する人たちの活動が少しずつ彼の汚名を雪いでいく。


・1954 年 50 歳 9(18)-9(18)

原爆に反対していたこと、共産党員が家族にいること、同僚が機密を持ち出したことなどからソ連のスパイの嫌疑をかけられ、 オッペンハイマーは聴聞会にかけられ、性格的に基本的な欠陥があるので国家機密を任せることはできない危険人物である と判決が下され、私生活も FBI の監視下におかれてしまう。オッペンハイマーを支持する声はプリンストン高等学術研究所だけで はなく、ロスアラモス研究所、アルゴンヌ国立研究所からも上がったがかき消されてしまう。聴聞会後、オッペンハイマーから以 前のような精神の溌剌さと生気のほとんどが抜け落ちたという。

これまで培ってきた自分の人生多くを脱ぎ捨てなければならない、辛い洗礼であったか。


・1963年 59歳 9(18)-9(27)

原子力委員会の委員長から、最高の栄誉であるフェルミ賞がオッペンハイマーに与えられる。これは 1961 年 9(18)-7(25)にケ ネディが大統領に就任し、その側近にオッペンハイマー支持者がいたことに端を発したものと思われる。
前回の 9-9 から今回の 9-9 の大きな変化。約 10 年の間に古い自分の人生から次の自分の人生へ、自己を欺くことなくき たので順当にステージアップできたかと思われる。


・1964 年 60 歳 1(19)-1(19)

恩師ボーアの追悼講演のため、ロスアラモス研究所に招待される。見た目はひどく年老いていたが、研究所所長のブラッドバ リーが「ミスター・ロスアラモス」とオッペンハイマーを紹介すると会場を埋め尽くした全員が立ちあがって嵐のような喝采を送った。 オッペンハイマーに対するこの自発的な愛情の溢出は、彼にフェルミ賞にまさる喜びを与えたかもしれない。
>Birth#22 の博愛とスケールの大きさ、Destiny#6 の愛と調和と思いやりと、カリスマ性ある指導者を強く印象付けるエピソード。 この道をとり続けていられれば、彼の人生はどれだけ素晴らしい色彩にあふれていただろうかと思うと、暗すぎる影を落とした原 爆の投下とその後の社会的名誉失墜は痛ましくてならない。ただ TypeIII が-10 であり、幾多の試練にも心折れることなく、研究、 後進の育成に邁進していた。


・1965年 61歳 1(19)-2(20)

喉頭がんによる死を自覚し、プリンストン高等学術研究所を辞任。アインシュタインか就いていた名誉教授の座を継いだ。(アイ ンシュタインは 1955 年 76 歳で死去している)

・1967 年 2 月 18 日 1(19)-3(21)

プリンストン高等学術研究所の物理部門の会議に出席後、自宅で倒れ死去。愛していたジュリアード弦楽四重奏団が演奏 するベートーヴェンの弦楽四重奏曲嬰ハ短調が告別式の最後を飾った。



【まとめ】


名誉に輝く数多の物理学者の中で、ひとり陰を抱え異彩を放つロバート・オッペンハイマーはかねてより非常に気になる存在で した。
今回、数秘というツールで彼の人生を紐解き、ひとつひとつ事象を追ってみて、これほどまでに真摯に Birth #22 を、Destiny#6 を、 Soul#11 を、Peronality#4-13 を、Realization#1 という自分の人生を生きた人はいないのではないかと思いました。 波乱万丈の人生で、社会的な頂点も、墜落も経験し、文学では「書くのを止められないのに、上達しないのも不思議だ」と友 人に手紙を書き、書き送ったものは酷評されても、物理学では輝かしい称賛を得ています。片や非常に自己中心的な人物と 言われ、片や「そんなところはみじんも思い当たらない」とも言われています。複雑で極端な二面性、光と陰。それを統合する愛。 美を愛し追及していく純粋な姿勢。Balance-10 からもわかるようにたくさんの苦労、経験から、自分の人生を最大限に生き創り上 げていった人。最初はどこで選択を誤ってしまったのか探してみようとも思いましたが、この暗さこそも彼の創り上げた成果で、彼 には非常につらくとも必要だったものとわかりました。本当に人はそれぞれ完全で完璧。人生に間違いや不必要なものは何一 つない。数秘の指し示す人生の奥深さに心を打たれました。


 2014/2/11 

東京クラス  Tsuyuki Koharazawa


by kej000 | 2014-03-14 11:08 | おもしろ数秘学